第十一章 政策提言

(1) デフレ脱却に、NPOの育成とワークシェアリング

 今の日本のデフレ経済は、需要に対して供給が上回っていて、物価が下落しています。デフレ脱却には、過剰な供給の生産力調整をしつつ、新しい需要を満たす産業の育成に期待するしかありません。従って、肥大化した公需の分野の土木・建設業は、生産調整を避けられず、この失業者の受け皿となる産業の育成が急務です。この産業の育成を官主導で行うのか、市場原理に従うのかで、経済政策は分かれますが、前者の、過去10年間の財政出動によるケインズ政策は、完全に行き詰まっています。

 こうした中で、従来の公共事業に変わる産業としてNPOなどの準公的サービスの分野での産業が注目されています。高齢化の中で介護を中心とする高齢者向けサービスの需要や、環境保全のような分野、少子化に歯止めをかけるための育児・教育支援、女性の社会進出に伴う家事支援ビジネスなど、準公的サービスの分野は、マンパワーが必要な労働需要といえるでしょう。

このNPOと呼ばれる非営利組織ですが。日本では非営利組織という形態では、資金が集まらない現実があります。非営利組織はサービス業であり、無報酬のボランティアではありません。また、寄付という概念がなじみの薄い日本で、欧州やアメリカのNPOの概念をそのまま導入するのは無理があります。

本来、非営利による準公的サービスは行政の仕事ですが、行政では競争原理が働かず、既得権益ばかり先行している現実があります。そのように考えると、この分野に競争主義を持ち込むNPOの活動原資は、行政が負担してもおかしくはありません。彼らを、労働市場の一角として位置付けるのならば、収益に行政からの補助金や市民からの寄付金は必要不可欠だと考えます。

 NPOによる労働市場の形成は、行政のリストラクチャリングにかかってきます。公益法人を含む行政機構のリストラクチャリング=事業の再構築をしなければ、準公的サービスに潜在するニーズは市場には出てきません。

このニーズの掘り起こしには、民間企業でリストラクチャリングを経験した民間の労働者を行政に入れる必要があるでしょう。そして、彼らを軸に、市民のニーズに対応する行政組織に体質転換をするのです。そして、この準公的サービスのニーズに対応する組織ができたら、今度は、その組織を行政から切り離し、NPOとして独立させるのです。

そして、この行政のリストラと 民間の労働者を受け入れるのが、ワークシェアリングです。公務員の賃金を時間給に置き換えて、一人当たりの総労働時間を減らして新規雇用を生む、ワークシェアリングを採用するべきです。

一人当たりの総労働時間を減らすことは給与の減少になりますが、財政が破綻しているのに、民間企業の労働者と開きのある公務員の給与を考えれば、民意は通ると思います。もちろん公務員側は反発するでしょうが、民間の労働者の声が多ければ通るでしょう。二者択一の政治を恐れてはいけません。

 国と地方を合わせて450万人の公務員の総労働時間を15%、新規雇用に回せば、約68万人の雇用が生まれます。雇用を下支えし、消費を下支えすることで、実体経済への波及効果も期待できます。そして、公的サービス部門を、NPOとして行政から切り離すことで、国民負担の少ない行政組織に生まれ変われるのです。アウトソーシングされたNPOは、市場原理にさらされ、競争主義と淘汰の原則が、この産業の活力とモラルを維持するでしょう。

もちろん、NPOに対する税金投入は、国民の判断を反映するシステムが必要となりますが、現在のコンピューターの技術はそれを可能にするでしょう。この公務員を対象としたワークシェアリングで、失業問題を克服し、NPOを中心とした準公的サービス産業の育成はデフレ脱却の道しるべとなるでしょう。

(2) 消費税から売上税へ

 現在、日本には約276万社の法人企業が存在していますが、そのうち実に72%が赤字であり、法人税を払っている会社は、全体の3分の1にも満たないのです。日本の法人は、税法上の特典から、法人所得税を払わない企業や、個人経営者が多いのが現状です。税の負担が公平でない現実が日本にあります。

 国は、中小や零細企業に手厚く保護をする現行税制を認めながら、源泉徴収での税収入(雇用の拡大)を求め、資本の寡占化を国策としてきました。中小や零細企業は、税制の保護を受ける一方で、自分達の地位が国策で締め上げられていたことにいまだに気がつきません。中小企業の定義も大幅に引き上げられ、日本の経済の活力である中小・零細企業は、国の経済政策から外されています。

 私は、消費税ではなく、売上税の導入を提言しています。企業の売上は、行政サービスなくしては生まれ得ないものであるということを基本とする概念です。実際には、2004年4月1日に消費税を内税にしました。この中に法人事業税も含めてしまおうという考えです。

 内税形式の売上税の税率は、国の予算と次年度の経済予測で決めます。1000円の単位で、課税額を決めて、その中に、国の予算の配分を詰め込めばいいのです。道路関係は、このうちの何%とか、失業対策費は、このうちの何%とかです。これは、民間企業の原価計算のやり方と同じといえば理解できるでしょう。

 その際に、「非課税取引」とか「対象外取引」の枠は設けません。消費税を売上税にすることは、商品の原価に間接税が入ることになりますが、消費税は、消費マインドを冷え込ますだけで、経済的にはプラスの面はありませんが、内税形式の売上税にすれば、企業は価格への努力を怠らないでしょう。その努力が企業の活力となるのです。

 税体系はシンプルにするべきであり、法人事業税と消費税を廃止して、売上税を導入するべきでしょう。売上税の税率は、国民総生産の計算方法を見直して、「非課税取引」とか「対象外取引」の枠は設けません。当然、免税事業者の設定などは廃止して、10万円でも売上げたならば、売上税を支払うのです。

 国は、安定した税収を求め、源泉徴収による税収を歳入の柱に置いてきたために、中小・零細企業は、経済政策から外されたことを理解するべきです。中小・零細企業の企業活動が、日本経済の活力やモラルを支えるのであり、中小零細企業の売上税が、日本の税収に占める割合が高くなることで、中小や零細企業の政治、経済上の地位を引き上げることが出来るでしょう。それが、日本経済の活力とモラルを回復させることにつながるのです。

(3) 民需の経済原則に即したリサイクル産業を

1 リユースとリサイクルの違い

 産業革命以降の経済は、大量の鉱物資源を、製品に転化させてきました。その製品の末路は、廃棄物となっていたのですが、鉱物資源の可採年数の限界や環境への影響など、21世紀は、廃棄物を資源として再利用せざるを得ない時代となっています。

 これは、いわゆる循環型経済システムと呼ばれているものですが、製品を再利用すること(リユース)と、製品を熱エネルギーに換えたり、原材料として再生産に利用すること(リサイクル)に大別されます。

 リユースは、民間レベルで産業として成長して社会でも認知されていて、自動車や家電製品は、アジアや中東、ロシアなど世界各国に輸出されています。これに対して、リサイクルは、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコンの家電大型製品やパソコンなど、官主導で産業と市場が形成されています。

 日本では、リサイクルはメーカーの義務とされ、その負担は消費者であるという、基本的なコンセプトとなっています。そして、このコンセプトに従って、家電リサイクル法やPCリサイクルなどの制度があります。

2 統制経済ではリサイクル産業は成長しない

 問題は、リサイクルが事業者の義務となると、この分野の産業への新規参入が、事実上閉ざされてしまうということです。これは、消費者からリサイクル料と運搬費を徴収して、自治体や販売店が各メーカーに運んで処理を依頼している状況では、リサイクル産業に参入するのは既存のメーカーだけになるからです。

 また、家電リサイクル法で定められた、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコンの家電大型4品目は、年60万tの排出量があり、その約8割が製品の買い替え時に小売業者によって引き取られ、地方自治体または民間処理業者に渡って処理されているのですが、現状では大半はリサイクルされていません。

これらは、焼却、直接埋立て、もしくは破砕後に埋立て処理されているのです。また、小売業の段階で、引き取られた家電製品がリユースに回っている事件も発覚しています。

 問題は、リサイクルをメーカーの義務とすることで、競争意識が芽生えず、リサイクルの技術の進歩も、産業としての成長も起こらないことです。経済産業省は「事業者と消費者等の関係者の創意工夫を最大限に活かすことで、市場メカニズムを有効に発揮できる」としていますが、そのために、規制的手法を主体とする政策をとるならば、この産業は統制経済の産業となり、自由経済の市場メカニズムは絶対に生まれません。

3 自由経済市場に即した循環型経済システム

 リサイクル産業は、製品を解体して、再生産にリサイクルする原材料ごとに分類する工程が重要です。そして、この分野は、多品種を扱う工程であり、機械化よりもマンパワーの方が、作業効率が高い分野です。その意味で、この分野は、零細企業や個人に参加する門戸を広げ、解体費用をメーカーから回収するようにして産業を起こしていくべきでしょう。

 生産者責任の中で、リサイクルや処分費用を、製品価格内に内部化されるというEPR(Extended Producer Responsibility)とは、あくまで、費用負担の問題であり、生産者が、リサイクルや処分を義務とする意味ではありません。産業を形成する時には、その産業への企業参加は自由であるべきであり、最初から参入する企業を限定している産業では、資本主義の経済原則は働きません。

 つまり、リサイクル料は、PCリサイクル制度のように製品の価格に上乗せするべきです。そして、販売時にリサイクル料をメーカーから徴収しておいて、製品の解体費用として当てるべきでしょう。そして、メーカーや品目にこだわらず、解体業務の門戸を零細企業や個人事業者に広げ、出来高でプールした中から、解体費を支払うようにするのです。

 そして、分別された部材や部品を回収するルートを作り、それをリサイクルして、原材料として生産現場に供給できるようにするのです。分別された部品や素材は、最新の技術と設備のある工場でリサイクルし、それを市場に供給することで、コスト意識を持たせることが重要です。

 当初は、設備投資や生産性の問題で、リサイクルした原材料の市場価格との差額を補助金などで支える必要があるでしょうが、コストを基本とした競争主義は、補助金を必要とはしなくなるでしょう。製品の価格に転嫁することで、メーカー側もインバース・マニュファクチャリングの技術を進歩させるのです。

(4) 談合を否定するのではなく肯定しよう

1 「民需」と「公需」の違い

 高度に発達した資本主義と民主主義の国では、国税を資本とする「公需」と、企業の資本による経済活動の「民需」が、その国の経済の両輪となります。

 「公需」は、社会資本の充実と、富の分配機能の経済であり、「民需」は、利潤を求める経済活動です。そして、統制経済である「公需」に対して、「民需」は自由経済です。

 前者の「公需」では、行政サービスの側面と、税を投資することで、社会資本を整備する公共事業があります。公共事業は、社会資本の充実とともに、税の分配機能というものを忘れてはいけません。

 「民需」では利潤を追求しますが、「公需」では、社会資本の充実と税の分配機能が優先されます。この意味で、公共事業に競争主義やコスト主義を持ち込むのはナンセンスといえます。従って、談合を悪とするのは間違っているのです。

2 税の分配機能としての公共事業

 そもそも談合は、仕事を公平に分配するのが目的であり、税の分配という面から考えれば、合理的な考えでもあるのです。反面、政官業の癒着で、公共事業を食い物にするような談合は、一般市民レベルで容認できるものではありません。しかし、談合を悪と決め付けて、いわゆる入札形式を強化すれば、入札額が下がり、そのしわ寄せは、下請業者に押し付けられます。つまり、税の分配機能が歪んでくるのです。

 市民の立場から考えれば、談合で、中間搾取をする政官業の利権構造の存在が許せないのであり、談合での中間搾取の構造をなくして、適正な価格で社会資本が整備されればいいのです。むしろ、地域経済の活性化のためには、仕事の持ち回りを否定してはなりません。

 私は、かねてより、談合を否定するよりも、肯定することが肝要であると提言しています。国民にとっては、公共事業で不当な利益を業者側が受けなければいいのであり、下請け業者に対して、適正な価格で仕事が回れば、地域経済の経済効果も出てきて社会に利益が還元されるという考えです。

3 適正価格と監察制度

 問題は、この適正価格なのですが、民需では、競争主義によって適正価格が求められていますが、これを「公需」に持ち込むと、談合は独占禁止法違反となります。しかし、よく考えれば、国や自治体の事業は独占事業体であり、その存在自体が独占禁止法違反なのであり、「公需」に独占禁止法を持ち込むのは間違っています。

 そうではなく、この適正価格に関しては、「公需」における適正価格は、求めるものではなく作っていくものではないでしょうか。それには、公共事業では、税がどのように使われたのか、行政や国民が監視することが重要となるでしょう。投資された税金の流れを、請負業者が主権者である国民に開示することで、税金の使途の責任を行政と国民が共有することで、適正価格が求められるという考えです。

 公共事業において、公平に税の分配をする責任は、企業にあるのではなく、発注する行政や国民にその責任はあるのです。その責任を果たす制度が必要なのであり、いわゆる監察制度を充実させるべきでしょう。談合などの規制が必要なのではありません。

4 公共事業の単体での企業会計の導入と情報公開

 具体的には、公共事業に単体での企業会計を導入し、発注物件ごとに、決算の作成と公開を義務付けるのです。見積り内容に沿った下請けへの発注がされているかどうか、適正な資材の購入がなされているかどうか、企業利益はいくらだったか、公共事業の単体での決算書を主権者である国民に情報公開するのです。

 また、見積りにしても、役所が予算を設定するのではなく、入札で見積りを有償で依頼した上で、ベースとなる予算を組むようにします。そして、発注段階では、実勢経済に合った見積りで入札をさせるようにします。そうすれば、予算の段階で適正な予算が組めるし、入札額も適正な額が求められるでしょう。

 ポルノ規制にしても、下手に隠すからやましい気持ちになるのであり、オープンにしたほうが、性教育にはプラスになることもあるでしょう。談合も同じで、下手に規制などをするから、あの手この手で利権を生み出す結果となるのです。

 そんな規制をするよりも、公共事業に単体での企業会計を導入し、それを情報公開することで、税の分配機能を監視することが必要です。そうすることで、利権となっている政官業の利権構造を排除することができるのではないでしょうか。

(5) 政策のコントロールは、予算ではなく税で

 小泉首相が、「カネを使わず知恵を絞れ」と各閣僚に檄を飛ばしたようですが、そうではなくて、「官僚にカネを渡さず、民間の知恵を引き出せ」ではないのでしょうか。

 日本の官僚は、経済活動で得る利潤や賃金ではなく、予算を獲得し、その予算を消化することが経済とする、社会主義経済国家しかその脳裏には描けません。そんな官僚らが、知恵を出したところで、結局は、いかに国税を蝕むかの、カラクリ作りに没頭するのみであり、資本主義経済とは決して相容れるものではありません。日本の政策の舵取りを、予算編成に求めている限り、国税を蝕む官僚シンジケートによる、利権社会主義は駆除できないでしょう。

 経済をコントロールするには、「馬の鼻に人参」ではありませんが、先にあげた「予算」という人参だけではなく、「税」という人参もあります。減税は即効性のある経済政策です。ただ、旧態依然とした減税では、また利権にからむ官僚に蝕まれることになるでしょう。そうしないために、国が策定した環境政策や雇用政策に、企業として参加した場合は、税の軽減措置を取ったらどうでしょうか。雇用に対しても、補助金をばら撒くのではなく、結果として、税の軽減で評価するのです。

 例をあげれば、環境問題では、ビルの屋上の緑化政策などは、旧態依然とした補助金行政ではなく、緑化政策の費用を税の控除対象にするとか、運送業界では、排ガス規制の適応の台数に応じて税の比率を下げるとかです。政府の重点政策に対して、民間がその政策に沿った取り組みの結果で、税の軽減という特典を与えれば、政策の効果も上がるでしょうし、補助金行政に既得権益を求めて群がる事もないでしょう。

 そのためには、税の徴収を一本化しなければなりません。私は、消費税を内税にした売上税を提唱していますが、所得税や雇用保険、社会保険、そして、福祉目的税や環境税の徴収を、企業では、消費税を内税にした売上税で徴収し、個人や雇用者は、収入に応じた税率で一本化するべきだと考えます。そして、経済政策や国策への関与は、その税の構成する税率のさじ加減で、政治に影響力を持てると考えます。

 情報処理技術の発達により、一元化した税のデーターを加工することは、すでにパソコンレベルでできる話であり、幾十にも積み重なった税を一元化して、その税を振り分けたり、政策に応じて税率を修正するのは、ITの最も得意とするところでしょう。

 経済政策を、旧態依然とした、公共事業などの投資的経費や、補助金行政などによるコントロールではなく、民間の意思と活力を引き出し、競争力を引き出すための施策を考えるべきです。そのため、結果に対してその成果を評価できる、税によるコントロールを政策に取り入れるべきです。

(6) 11桁の住民票コードではなくIPアドレスを

1 住民基本台帳ではなく、ネットワークによる管理を

 「住民基本台帳ネットワーク」に対する是非が注目されていますが、問題点が整理されずメディアの一方通行の報道がまかり通っています。問題点を整理し、その上で、個人情報保護法案のあるべき姿や、システムの代替案を出すなどの作業が必要です。ただ、共有する概念は、住民基本台帳ネットワークの目的であり、この目的は、行政事務を効率化し、利用者の便宜を向上するとともに、行政のリストラを実現することであります。したがって、国民総背番号制は前提となるものです。混乱に乗じてこの基本となるシステムをないがしろにしてはなりません。

現行制度では、登録される本人確認情報は、11桁の住民票コードで管理され、その情報は、都道府県ごとのデーターベースと国で管理するデーターベースが作られます。問題は、管理する情報も大事ではありますが、データーベースをネットワークでつなぐということは、不正侵入の危険に常にさらされるわけであり、その場合に、大量のデーターを盗まれる危険性があるということです。この不正侵入を完璧に防ぐことはできません。防御策としては、侵入されるということを前提に、システムを考えるべきではないでしょうか。

この答えとして、データーベースをネットワークでつなぐのではなく、個々の情報をネットワークでデーターベース化すればいいと考えます。つまり、11桁の住民票コードを、国民一人一人に与えられるIPアドレスとして、ネットワークに登録する基本情報は、氏名、生年月日、性別、IPアドレスを振り分けてホームページを開設します。そして、そのホームページアドレスを、ネットワークでデーターベース化するというものです。個々の個人情報は、各ホームページで管理するものとし、そのアクセス権を、パスワードで管理します。

 セキュリティーに関しては、HTMLファイル内の情報は、データーベースのようなCSVファイルとは違い、一度の不正侵入での大量の情報の流失を防げます。不正侵入を完璧に防ぐのではなくアクセスログを管理することで、不正侵入に対する法的処置に対応するのです。

2 ソフトの開発よりも、情報のデジタル化が重要

 まず、総務省は、事務自体をそのままペーパーレス化(電子化)するデジタル化だけではなく、高度情報通信ネットワークの構築を並行して進めているようですが、これは決定的に間違っています。基本OSにウィンドウズを導入したり、これをベースにシステムソフトに莫大な資金を投じたりしている状況は、生産性を向上させているのではなく、その逆でありましょう。

 まず、情報技術による合理化は、情報のデジタル化が重要です。これには、マンパワーで解決するしか方法はなく、膨大な人手と時間が必要であります。そして、デジタル化された情報をどのように活用していくのかということは、事務レベルでペーパーレスを実現するのが先決でしょう。

 いきなりシステム化しても、情報技術の進歩のスピードはソフトの陳腐化をもたらすからです。莫大な資金を投じて開発したソフトも、運用する頃には時代遅れとなっていれば元も子もありません。

 むしろ情報のデジタル化で重要なのは、ファイル形式を、汎用的なファイル形式に統一することでしょう。ウィンドウズのワードやエクセルなどのソフトを、国家のファイルシステムの標準としてはいけません。文書ファイルはテキスト形式で、表計算のファイルは、CSVファイルなどの互換性のある形式で統一するべきでしょう。

3 住民票コードは、公開鍵として運用するべし

 このホームページは、公開鍵を持つ行政の各部門の職員は書き込めますが、閲覧するには、本人の認証を必要とするものです。税、医療、犯歴など、国民と国家が基本的に関係する情報を国家が国民に与え、それを管理する義務が国民にあるとするのです。そして、その情報の開示を請求する権利を国家が持つという考えです(請求であり強制ではありません)。

 そして、公開鍵と本人認証のシステムを組み合わせることで、個人情報を管理する義務や情報の開示の請求など、ネットワークのセキュリティーを実現することができるでしょう。住民票コードをIPアドレスに置き換え、公開鍵を用いて、行政と個人でホームページを共同で管理するシステムを提案します。

 こうすれば、個々の個人ホームページのセキュリティーを破られても、失われる情報は限定され、国家と国民の双方にとって、それほど深刻な事態とはなりません。完璧な情報の保護はあり得ないとする考えが前提としてあるべきであり、各自治体が、データーベースを構築し保持することは、リスクが高く、行政の合理化にはならないことを理解するべきです。

キーポイント
○ システムありきではなくて、情報のデジタル化が重要。
○ 住民基本台帳の「住民票コード」を「IPアドレス」にする。
○ 住民票コードは、公開鍵としての役割を果たす。
○ 個人情報をデーターベースではなく、ネットワークで管理する。
○ IPアドレスによるWEBページでの個人情報の管理。
○ 書込みは、個別に発行された公開鍵でする。

(7)公益法人の定義が間違っている

[現行の公益法人の定義]
 公益法人とは、祭祠、宗教、慈善、学術、技芸その他公益に関する社団または財団であって、営利を目的としないもの。これに対して、営利法人とは、営利を目的とする法人をいい、株式会社・有限会社等の会社が営利法人とする。 → 営利を基準としている。

[原理資本主義の公益法人の定義]
 特定の目的で集められるお金を運営管理する事業と、国や地方自治体の補助金や委託金で運営されている事業を公益法人とし、市場で利益を追求する事業を営利法人とする → 資本(資産)の性質を基準とする。

 現状の民法では、特定の目的を持って集められたお金を運営管理する財団法人と、人の集まりで構成させる社団法人に分けて、利益を得る行為としての営利を目的とするかしないかで、公益法人と営利法人に分類をしています。

 法人とは「人以外のもので法律によって権利能力を認められたもの」を言いますが、法人が、経済活動上の権利を与えられるということは責任も付与されるのであり、その責任は負債として法人が負います。

 資本主義社会での経済活動は、資本と負債が必ず存在します。負債のない法人活動では利益が出ているということです。つまり、利益の存在しない法人活動は、資本主義社会では存在しないのであり、利益を求めない経済活動は存在しません。

 従って、利益を上げずに負債も発生しない経済活動は、論理上、社会主義社会では可能でしょうが、資本主義社会では成立しません。従って、利益と負債は表裏一体のものであり、営利を目的としない公益法人という定義は間違っています。

 原理資本主義では、経済は「公需」と「民需」に分けていますが、公需の中での法人活動と、民需の中での法人活動は、明確に分類しなければなりません。従って、社会一般の利益を求める法人活動を公益法人とするには異論はありません。問題は、何を基準に分類するかということです。

 原理資本主義では、その基準を、資本(資産)の性質で分類することを提言します。つまり、特定の目的で集められるお金を運営管理する事業と、国や地方自治体の補助金や委託金で運営されている事業を公益法人とし、市場で利益を追求する事業を営利法人と分類するのです。

 寄付金などで運営する法人や、国からの補助金や委託金で運営する法人は、公共の利益のために事業活動を行うのであり、事業による利益が出た場合は、その利益は主権者である国民に還元すればいいのです。

 そして、寄付金や補助金というのは、公益サービスに対する対価と考えるべきであり、損益が出た場合には、寄付金や補助金の増額で収支のバランスを取ればいいのです。その判断が、国の予算であり行政の仕事です。そして、その決定権は、国民の代表である立法府にあるのです。

 営利法人の売上に相当するのが、公益法人では寄付金や補助金であり、営利法人が利益を株主に還元するのに対して、公益法人では、出資者である特定のサービスを受ける人々や、国に利益を還元するべきでしょう。

 このような考えから、特定の目的で集められるお金を運営管理する事業と、国や地方自治体の補助金や委託金で運営されている事業を「公益法人」とし、民間市場で利益を追求する事業を「営利法人」とすることを提言します。

(8)国会の空洞化は、法案ありきの議論が原因

1 法と制度

 「法により国家権力が行使される国家」と定義される法治国家の中で、立法機関である国会は、国権の最高機関とされています。しかし、国会議員の憲法51条の「議員の発言・表決の無責任」は、党議拘束でその自由と権利が奪われ、国会は、本来行政側である霞ヶ関の官僚に牛耳られていて、国会議員にとって、国会は権力をめぐる駆け引きの場でしかなくなっています。

 私は、党議拘束は憲法違反であるとし、国会議員は、有権者の声を受け、一人一人の判断と論理で、国会の発言と表決に参加するべきだと主張しています。しかし、その前に、法治国家として、「法」と「制度」の相関関係の定義を明確にするべきかもしれません。

 「法」とは、行動や判断の基準です。日本国憲法には欠如していますが、本来、基本的人権である自由と、他人の人権を阻害したり否定してはいけないという責任。そして、国家が国民に与える権利と、その権利を行使する国民が国家に提供する義務。この「自由と責任」「権利と義務」の関係を成立させるのが、国家最高の法規範である憲法といえると考えます。

 日本では、憲法を上位法として、法律を下位法と位置付けていますが、この場合の法律とは、国家・社会・団体を運営していく上で、制定される法や規則である「制度」と言い換えることができます。国家と国民の行動の基本となる法規範である憲法と、国家・社会・団体を運営していく上で、制定される法や規則である「制度」の違いを、上位法と下位法というように法という言葉でひと括りにするのではなく、上位法の憲法、下位法の「制度」と分けるべきではないでしょうか。

2 機能不全の国会の現状

 この違いを明確にしないから、立法機関である国会の議論は成立しないのです。国民の権益を政治に反映するために送り出された国会議員が、国会ではイデオロギーの議論に終始して、権益の主張は、国会外の政党内で議論をしているというのが日本の政治の現状ではないでしょうか。制度を議論するときは、イデオロギーは関係なく、権益のぶつかり合いでいいのです。それには、どの層の権益を代表しているかというスタンスが重要となります。

 しかし、今の小泉政権に対峙するのは与党内野党である自民党の抵抗勢力であるという構図と、支持率が5%前後の野党第一党の民主党は、政権交代を叫ぶばかりで、均衡財政論者も積極財政論者であるケインジアンは、与野党内に混在しています。彼らは、永田町の論理で動いているのであり、国民の声である権益はその眼中にはありません。

 政治はどの層の国民の権益を主張するかというスタンスが必要であり、それを実現するためにイデオロギーが必要となります。東京大学出身者の哲学の底流にある「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」という「一般人民は、選ばれた者によって行うべき道を与えられるが、何故それを行うのかということは知らせても意味がない」という教えは、どの国民の権益を代表するかというスタンスを庶民に問わなくてもいいと言っているわけではありません。そうではなくて、そのスタンスを理解してもらい、それを実現するイデオロギーを、(エリートに)一任しろというものでしょう。

3 三権分立をその基本概念から見直そう

 国会は憲法や制度という法を審査・監視するところであり、法律を作るところではありません。新しい制度や現行制度の問題点を議論する場であり、憲法の改正の是非は当然です。従って、国会は立法機関ではなく、上位法である憲法と、下位法である制度を、審査・監視して、改善したり修正する機関とするべきでしょう。

 そこでは、違憲行為の監視とか、現行憲法の問題点や改善点を議論するべきであり、問題点と方向性の議論が集約したならば、それを、事務方に法案化させればいいのです。そして、下位法である制度に関しては、まず、問題提議ありきで、現行制度の問題点や改善の提案の是非を議論するべきで、法案の提出が先にありきではいけません。法案の提出が先にありきになるから、事務的処理が先行してしまい、結論ありきの議論となってしまうのです。

 そして、具現化した法律を審議・審査するのが司法です。司法は、国会で作られた論理と、事務方の作成する法律との整合性を審議・審査して、その正当性を判断します。司法が、この法案に異議がある時に行使するのが「違憲審査制度」となります。

 法案を作成するものが権力を握るという政治では、行政、国会、司法と官僚が実効支配してしまうのは当然です。そうではなくて、国会は、憲法や制度にたいして、提案や改善点を指摘する場であり、それを具現化する法を審議、審査するのが司法の役割であるとするべきでしょう。そして、行政は、国会が定めた憲法や制度の枠組みで、外交や内政の行政権を行使するべきです。これならば、三権分立は成立します。

第一章 原理資本主義

第二章 時代が加速している21世紀

第三章 ベルリンの壁の崩壊から学ぶ経済のあり方

第四章 日本経済を考える

第五章 日本経済の迷走の原因は「企業の再生」にある

第六章 新日本列島改造論

第七章 担保主義に代わる金融システムの提言

第八章 経済の元凶である退職金と年金制度

第九章 政権交代の主役は国民である

第十章 永田町に競争主義の導入を

第十一章 政策提言

第十ニ章 CDS債が核のボタンであるという意味

著者からのメッセージ

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