第六章 新日本列島改造論

(1) 情報技術は社会構造を変える
 
 日本の資本主義の成長過程はおおむね健全といえるでしょう。資本主義は人間の成長と同じで、反抗期やいろいろな苦労を重ねながら成長するものです。その意味では、世界に先駆けて、日本型社会主義といえる統制経済と自由経済の混合経済を確立したのは評価するべきでしょう。

 しかし、経済は、資本が寡占化していく過程で成長し、その産業の寡占が終わると、新しい資本の寡占が始まり、その成長過程で、自由経済と統制経済もまた繰り返すものです。これを踏まえて現状を認識すれば、統制経済に比重が傾き、赤字財政により産業の創出もできず、また既得権益の弊害が起きている現状は、破綻した東欧の社会主義国と同じ道を歩んでいるといえます。

 これを打開するには、情報処理技術と情報通信技術の進歩によって、現在の高度に寡占化された資本をすべて開放し、規制と認可を取り払い自由経済による経済再生をするべき時代にきていると考えます。

 この新しい時代へのリセットをいかにするかが、この変革期にいる政治家のなすべきことです。日本は明治維新という、いいお手本があります。いまこそ維新です。そして、そのためには、情報革命の意味をきちんと理解しなければ、21世紀の展望は見えないでしょう。

 情報技術は、消費と雇用を創出するものではなく、むしろ雇用においてはマイナスに作用するものです。仮に、経済を打開する新しい産業となりえると仮定しても、もしそうであるならば、支配者階級が握っていた国家権力を被支配者階級が奪い取って、政治や経済の社会構造を根本的に覆す変革とする意味の革命とはなりえません。

 そうではなく、情報技術は、政治や経済の社会構造を根本的に覆すもので革命的なものであるのです。情報技術は、高度の寡占化された資本を開放するものであり、資本家階層と労働者階層の階層間移動が自由になり、そして移動の壁をなくすでしょう。それは、市民が、既得権益化している官僚という権力と対峙することを意味するのであり、この実現への道のりは、文字どおり革命であるのです。

(2) 情報技術とは
 
 ITとはinformation technologyの略称で、情報技術という意味です。そして、この情報技術は、以下の3つの技術に分けて考えねばなりません。
 
1  情報処理技術(information processing technology)

 18世紀に起きた産業革命は、動力(蒸気)の発明により、木綿工業を中心に、生産性は飛躍的に向上しました。そして、第二次世界大戦後、テレビの登場は、広告宣伝による大量消費の時代を開かせました。資本は寡占化し、組織が肥大化することで、間接労働者の数が急速に増えました。いわゆるホワイトカラーの登場です。

 戦後の日本の学歴主義は、管理部門の間接労働者を選別し、東京大学を頂点とする学歴社会は、高度成長に大きく貢献しましたが、階級化も進んでゆきます。現場などの直接労働者は、ライン生産の機械化などで合理化が行われましたが、間接労働者の合理化は、FAXが登場する時代を経て、パソコンの登場で、その生産性は飛躍的に伸びていきました。

 情報処理技術の進歩は、労働集約産業であったこの間接部門をリストラすることを意味します。アメリカはこのリストラで、生産性において日本を抜き返しました。
 
2  情報通信手段 (information communicatio)

 テレビの登場で、資本は広告という媒体を利用して、市場の拡大と資本の統合を進めました。テレビは、限られた枠の中で情報を発信しますので、その枠を求めて資金が集まり、その価値は引き上げられていきます。その結果、メディアに携わる者と利用する側の一般大衆との経済格差は広がっていきます。

 しかし、インターネットの登場は、テレビジョンが送信する権利が限られたチャンネルしかなかった時代から、誰でもが、廉価なコストと設備で、音声と映像と文字情報をリアルタイムにやり取りすることを可能にしたのです。

 これは、テレビ時代の宣伝広告のあり方を変えるとともに、情報を求めて都市部に集中する人の動きを、拡散する方向に持っていく可能性のあるものです。何故なら、情報の伝達の時間と距離の壁を縮めるために、都市と都市をつなぐ交通インフラを整備し、都市の人口の膨張が繁栄の証でしたが、インターネットは、情報伝達の時間と距離の壁を取り除いたのです。

これは、今まで人類が経験したことのない社会の到来であり、従来の都市のあり方や広告のあり方を根本的に変えるものであるのです。
 
3  遺伝子情報技術(genetic information technology)

 代々、生物や動物が生命の誕生とともに受け継ぐ遺伝子情報は、スーパーコンピューターの登場で、その情報として解析され、すでに、細胞内のDNAの配列は解明され、そして操作できる時代になったのです。

 クローン技術も遺伝子情報の分野ではありますが、遺伝子情報を伝達する過程において、人間の意図が反映できるクローン技術に対して、遺伝子情報自体を、人間の手によって操作しようとする遺伝子情報の分野の違いは大きい差があるといえます。

 しかし、このクローン技術も、遺伝子情報の操作も、かつて神の領域とされてきたものであり、人類が営々と築き上げてきた倫理観や宗教観が一大転機を迫られるのは避けることはできないでしょう。

 この意味で、この遺伝子情報の技術は、単に医療技術の分野にとどまらず、14世紀はじめに、西ヨーロッパに拡大した人間性解放をめざした文化革新運動である「ルネッサンス」に匹敵する文化革命であるでしょうし、それは、コンピューターという存在抜きでは考えられないのです。

(3) 次元別に考える情報革命

 情報伝達の、距離と時間の短縮を求めたインフラを二次元的な情報とすると、テレビやインターネットの点から面に向かう情報は三次元的であると言えるでしょう。また、紙媒体を使う文字情報や、デジタル化した情報は、歴史の空間を越える四次元的な情報といえるでしょう。

 このように考えていくと、生命が生まれながらに受け継ぎ、継承される情報である遺伝子情報は一次元的な情報であるといえます。人類が、遺伝子情報の領域に挑戦したのは、レオナルド・ダ・ビンチなど何人もの天才が挑みましたが、近年のスーパーコンピューターの出現により、この神の領域に人類は足を踏み入れることができたのです。

 現代において、二次元、三次元、四次元の情報技術の進歩と、一次元的な遺伝子情報の技術の進歩を一緒くたにしてはいけません。どちらも「既成の制度や価値を根本的に変革すること」である革命的な技術進歩であり、それを可能にしたのは、インターネットであり、コンピューターの出現なのです。この進歩の境界線をきちんと整理しなければ情報革命は語れません

1 一次元的な情報 (生まれながらに受け継ぎ継承される情報)

 人類が、遺伝子情報の領域に踏み込んだのは、この四半世紀のことであり、それは、コンピューターの処理速度の技術革新によってもたらされました。

 代々、生物や動物が生命の誕生とともに受け継ぐ遺伝子情報は、スーパーコンピューターの登場で、人類がその情報を手に入れて、そして操作する時代になったのです。すでに、細胞内のDNAの配列は解明されて、さらに、その関連性の解析が進められています。

 クローン技術も遺伝子情報の分野ではありますが、遺伝子情報を伝達する過程において、人間の意図が反映できるクローン技術に対して、遺伝子情報自体を、人間の手によって操作しようとする遺伝子情報の分野の違いは重要です。しかし、このクローン技術も、遺伝子情報の操作も、かつて神の領域とされてきたものであり、人類が営々と築き上げてきた倫理観や宗教観は、一大転機を迫られるのは避けることはできないでしょう。

 この意味で、この遺伝子情報の技術は、単に医療技術の分野にとどまらず、14世紀はじめに、西ヨーロッパに拡大した人間性解放をめざした文化革新運動である「ルネッサンス」に匹敵する文化革命であるでしょうし、それは、コンピューターという存在抜きでは考えられないのです。

2 二次元的な情報 (対面で伝達する情報)
 人を媒介として伝達する「二次元の情報」は、交通インフラの進歩と技術革新の歴史であり、それは、人を運ぶ時間と距離の短縮の歴史であります。人の移動こそが情報伝達であり、情報は人を媒体として伝達されてきました。そして、その人を移動させるために、交通インフラが発展し、乗り物が発達してきたのです。

 かつて人が歩いて情報を運んだシルクロード、そして、風の力を利用して海の航路を切り開いた大航海時代、そして、化石燃料から動力を生み出す産業革命を経て、自動車や飛行機の登場で、人類が移動する距離とその時間は飛躍的な進歩を遂げました。人を媒体とする情報の距離と時間への究極の答えが、「コンコルド」です。コンコルドの乗客の9割がビジネス客であるのはこれを証明しています。

 しかし、インターネットは、この人間が営々と挑戦してきた「二次元の情報」の距離と時間の壁をゼロとしたのです。現代では、文字、音声、映像を三次元の感覚で、情報を距離と時間に関係なく手に入れられる時代なのです。この情報伝達の、距離と速度の壁があるのとないのとの歴然たる違いを認識しなければ、時代を読み取ることはできません。


3 三次元的な情報(点から面へ情報を伝達する放送という情報)

 一つの情報を、多くの人々に拡散する情報は、いわゆる口コミや布教活動や演説などの形態から、電波の発明で、ラジオ放送へと発展していきました。ラジオ放送を効果的に使った人物として、アドルフ・ヒトラーはあまりにも有名でしょう。

 第二次世界大戦後に登場したテレビは、音声に映像を伴う放送を実現しました。そして、このテレビを利用したのは、今度は、政治ではなくて経済でありました。テレビの持つ音声と画像を伴う放送は、資本主義の先進国では、消費を促す宣伝効果として受け入れられ、消費市場の面を支配するテレビの広告効果は、消費動向と比例し、資本の寡占化を推し進めていきました。なぜなら、テレビで流す広告の権利は限られていたからであり、その権利を得るためには資本の寡占化と市場の寡占化が至上命題であったからです。

 テレビに影響される消費動向は、物の価値に宣伝広告費の占める割合を高くし、宣伝媒体として選ばれた人々=芸能人と、広告を扱う企業関係者の富への偏重が大きくなり、それが絶対的な経済格差を生んでいくことになり、この経済格差が、カジノ資本主義と結びついて、実体経済と乖離した金融市場を形成していきます。

 放送という三次元の情報の分野では、ラジオからテレビへの歴史を理解することはとても重要であり、放送の権利について考察することも重要です。それが理解できなければ、インターネットが、この三次元の情報でいかに革命的なのかを理解することはできません。

 インターネットは、ラジオやテレビなどで、ごく限られた人々に握られていた放送する権利を、一般市民レベルで開放したのであり、21世紀の政治で、この権利を権力で独占したり抑制することは困難となるでしょう。インターネットは、放送の権利を一般市民に開放したのです。この意味でインターネットは、「支配者階級が握っていた国家権力を被支配者階級が奪い取って、政治や経済の社会構造を根本的に覆す変革」である革命といえるのです。

4 四次元的な情報(事象を、時間を超えて伝達する情報)

 文字の発明で、人類は情報を時間を超えて伝達する手段を得ました。それは、紙の発明で書物となり、産業革命で輪転機が発明されたことで、新聞を媒体として情報を手にする人々は格段に増え、情報を得るタイムラグも技術革新で縮まっていきました。人々は能動的に情報を得る手段として書物や、新聞などを求めたのです。

 時代という空間を超えて情報を伝達する書物や記録媒体としての新聞などのメディアは、デジタル化されることで、人々は、自宅にいながらにして、その情報を手に入れることができるようになりました。ラジオやテレビは情報を一方的に押し付けましたが、インターネットは、人々の能動的な情報への探求に対する垣根を取り払ったといえるでしょう。

(4) インターネットが革命である理由

 本来、情報と物と人が集まることが、経済を繁栄させたといえるでしょう。権力者は、交通インフラを整備して、情報と物と人が集まれる環境作り、つまり都市の構築に努めました。そして、テレビの登場で、広告という情報が、消費を促進させる潤滑油になり、大量消費の時代に入っていきます。

 つまり、ことの始まりは情報であり、その情報の媒体である人が動く距離と時間の短縮が、経済と技術の発達の歴史なのです。情報は、紙の発明から活版印刷へと、文字情報の技術は進歩し、言語による人と人とのコミュニケーションは、交通インフラの進歩をもたらし、それは、コンコルドによって音速を突破する旅客機を持つに至ります。

 電話とFAXは、言語と文字情報の距離と時間の壁を取り払い、OA革命といわれたのは20年前のことです。それでも、情報の媒体としての人間の役割は、移動することを必要としました。それは、文字や音声、そして映像という情報のすべてを、リアルタイムでやり取りするには情報量が不足していたからです。

 ここで、インターネットが登場します。インターネットは、文字、音、映像という膨大な情報を、相互通信することを可能にするものです。つまり、情報を媒体する人が、移動しなくても、文字、音、映像という膨大な情報をやり取りできるものであり、それは、電話と違って、複数の人とのやり取りを可能としました。

 人間は、情報の伝達の、距離と時間の壁を取り払ったのです。音速の壁を超える技術に至る情報伝達のスピード競争は終止符が打たれました。このことは、人類が、動力を手に入れた産業革命と同じように、情報の伝達のあり方に対して、既成の制度や価値を根本的に変革する革命的なことであり、このことをIT革命=情報技術革命と呼ぶべきでしょう。

 このようにIT革命を定義すれば、来るべき社会のあり方が見えてきます。それは、ブラックホールである都市に吸い込まれた情報と物と人が、都市から開放されるということです。都市の発達とともに寡占化された資本も開放されるものであり、その流れを妨げてはいけません。資本と物と人は分散することで、地域経済が発達し、新しい経済の需要が生まれるでしょう。その分散した情報と物と人を結びつけるのが交通インフラであり、このインフラ整備の完成度が、経済力を決定します。

 まず我々は、IT革命を語る前に、情報と革命の語句の定義付けをしなければなりません。語句の定義を共有化して、インターネットの役割を理解するべきです。ITを新しい産業と位置付けているのであれば、それは、「既成の制度や価値を根本的に変革すること」である革命とはなりません。アメリカから入る情報を丸暗記するだけで日本の未来を語ることはできません。

(5) 新日本列島改造論
 
 官僚主導の統制経済は、高度成長をもたらしましたが、資本の寡占が進み、既得権益が経済活動を閉塞し、そして、既得権益を享受する階層と享受できない階層の階層間移動は硬直し、日本経済は活力を失っています。そして、そのはけ口を、諸外国に対しての市場拡大に向かわせるような第二次世界大戦の時代ではありません。

 といって、ウォール街を中心とした金融システムによるカジノ経済のグローバル経済は、富める者と貧困層の格差を前提としている以上、この経済システムはいずれ崩壊します。WTCの崩壊は、グローバリズム経済への警鐘であり、アメリカの経済システムを、21世紀の日本の、経済システムのお手本としてはいけません。

 アメリカのように、カジノ経済で得た資本を国内で消費するという経済のあり方は、対極にある貧困層を抑えきれず、国の内外を問わず、貧富の格差が広がっています。この対極にいる貧困層を抑えるようになれば、民主主義は崩壊します。世界第九位の人口を有する日本は、グローバル経済の勝ち組みとして、カジノで得た資本で内需を活性化するなどの政策を取るべきではありません。

 そうではなくて、「物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程、およびその中で営まれる社会的諸関係の総体」が経済であることを再認識して、物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の流れを促進し停滞させないという基本に立ち返るべきではないでしょうか。

 今、日本は小手先の有効需要を追い求めず、内需主導の経済を柱とした、21世紀を睨んだ展望が必要です。そして、その核となるものは、IT=情報技術でありましょう。ただ間違ってはいけないのが、IT=情報技術そのものを有効需要と考えるのではなく、情報技術は、統制経済で行き詰まった経済をリセットし、自由経済にて経済を再構築するという「手段」として考えるべきなのです。IT=情報技術は、都市部に集中した市場を地方へ拡散します。寡占化した資本は地域ごとの資本へ分散し、資金が利益を生むような経済構造から脱却していくものなのです。

 故田中角栄の日本列島改造論で、日本の物流インフラは高度に整備されましたが、情報は、都市部に集まり、情報を伝達する人間も都市部へ集中しました。人が集まればそこには経済が生まれます。日本列島改造で、作られた高度な物流システムは、都市の肥大化を促進させました。そして、皮肉にも、都市部の経済の発達で得られる利潤は、地方の物流インフラへと再投資され、この投資で地方経済が成立していきます。日本は、自由主義経済の面と、統制経済による社会主義的な一面を合わせ持つ特異な国家となっていきます。

 これに対して、現代の情報通信技術はどのような社会をもたらすのでしょうか。情報技術の発達は、情報の伝達の時間と距離の壁をなくすことを意味しています。これは、今まで、情報は、物流インフラで動いていたために、情報も人間も都市へ集中し、経済も都市に集中してきました。しかし、情報の伝達の距離と時間の壁がなくなる社会では、情報と人間は都市へ集中する必要がなくなり、地方へ流れ出すことを意味します。それは、地方での自由経済の成立を意味します。

 経済は消費によって支えられますが、高度な物流インフラは、分散する消費を支える事でしょう。情報技術の進歩は、都市化せずとも、経済が成立していく社会を意味するのです。そして、その経済を支えるのは、高度な物流インフラであるのです。また、テレビに独占されていた情報の発信する権利も、インターネットによる情報の発信で、狭い地域への効果的でコストのかからない広告ができるようになり、資本の寡占に大きな影響を持つテレビ広告の影響を受けなくなるでしょう。

 テレビは、第二次世界大戦後に登場したもので、この情報通信技術は、広告宣伝の効力をまざまざと見せつけました。流動資本を求めて軍事力による市場の拡大を求めた経済は、第二次世界大戦で終わり、それ以降はテレビでの宣伝広告による、市場の開拓と資本による経済支配を求めるようになったのです。

 資本の寡占化は、テレビという距離と時間を超えた宣伝広告という技術を効果的にするため、資本の寡占化とその成長のスピードに拍車を掛けました。ビジネススタイルは、事業の拡大のみに眼が向けられ、事業の拡大とテレビの宣伝広告に投資が行われました。経済は、消費動向を支配する情報を発信するテレビの権利を求めて、資本と人が集まります。この、情報を受信する権利と発信する権利の不平等に誰も気がつきませんでした。

 インターネットは、情報を発信する権利と受信する権利を平等にするものです。今まで、テレビに支配されてきた、情報を発信する権利を開放するものであり、それは、一部の寡占化された資本に支配されてきた経済構造を崩すことができることを意味しています。

 そして、寡占化した資本が支配する、消費をコントロールするテレビによる宣伝広告を、小資本の事業者でも、廉価な設備でその宣伝広告ができる環境を手に入れることを可能にするものであり、ビジネスが、事業の拡大のみに走る経済構造を変えるものとなるでしょう。そして、小さな資本での企業活動ができる環境の実現は、資本家階層と労働者階層の「階層間移動」の壁をなくし、活力のある経済がよみがえるはずです。

 私達の日本国は、このインターネットという情報通信技術を使い、都市部への情報の集中から地方への拡散を実現し、高度な交通インフラを最大限に利用し、物流を都市部への集中から地方への拡散させるようにするべきでしょう。21世紀は、高度な交通インフラと情報通信インフラによって、経済的に地方自治を確立し、中央集権の国家から決別し、地方分権を確立し道州制を確立する時代なのです。

 そして、情報処理技術の進歩は、情報を処理する仕事を機械化することで、国民の経済的な行政負担を軽減させます。これは政府の歳出削減に大きく寄与し、その導入のノウハウはすでに民間で確立しています。また、会社運営において、この技術が、間接人員の少数での運営を可能とすることにより、小規模事業者の増加を促進し、彼らが地方経済の新しい核となり、新しい経済構造を構築するでしょう。

 また、情報遺伝子工学は、食料計画や医療の分野で人類に大きく貢献するものであることを認識し、この技術を推進していかなくてはなりません。反面、倫理面で、使い方によっては、核兵器以上に危険なものであることを認識し、核被爆国として、核の脅威を世界に伝え続けていくことと同じように、世界に、この脅威に警鐘を鳴らすことを使命としていかなければなりません。

 故田中角栄首相が提唱した日本列島改造論は、物流のインフラ整備を提唱し、建設・自動車そして家電と日本の基幹産業を巻き込み、技術と経済の高度成長を実現しました。現代では、日本列島改造論が、基幹産業を巻き込んで有効需要を創出したのとは異なり、情報インフラの整備での、有効需要は特定の産業に限定され、日本経済への波及効果はありません。

 しかし、インターネットという情報技術革命は、有効需要を作り出すのが目的ではなく、有効需要を導く手段として考えるべきであり、高度に寡占化し、既得権益で守られた資本の分散を実現し、既得権益を権力とする政治をリセットするものであるのです。

 経済は資本が寡占化していく過程で成長し、その産業の寡占が終わると、新しい資本の寡占が始まります。寡占が成長していく過程に規制や認可などの統制経済が生まれますが、新しい資本の寡占が生まれるとき、そこは自由経済が必要だとするとき、寡占化した資本の分散と、既得権益を権力とする政治のリセットを、経済の流れの中で実現することを可能とするのが情報技術です。日本列島改造論が日本の産業構造の根幹を形成したものとするならば、情報技術による、新日本列島改造論は、この産業構造の再構築を提唱し、実現する指針とするものであります。

 情報技術の進歩ばかり見ているのではなく、この技術で何をするかが重要でしょう。今の日本の政治にはビジョンがありません。私の提唱する新日本列島改造論は、ビジョンとなりえないでしょうか。この意見は、まだ日本の有識者が語ったことではありません。当然、他国での前例も検証もなければ、教科書に書いてある意見でもありません。しかし、先ほども述べたように、高度成長期を支えた官僚主導の統制経済により、世界で唯一社会主義経済を成功させた国であります。残念ながら、既得権益の横行で、活力とモラルを失うという現実に直面しています。旧ソ連や東ドイツなどの東欧諸国では、社会主義が既得権益を制御できず崩壊しましたが、日本もまた同じ状況であるといえるでしょう。

 利権社会主義から脱却し、情報を求めて肥大化する都市と資本の寡占化を、インターネットによる情報の、受発信の権利の開放で、都市部に集まる情報と人と資本を、地方に分散させ、高度な交通インフラを最大限に生かして、地方経済の活性化に、日本再生の活路を求めるべきではないでしょうか。

(6) インターネットの普及による地域経済の活性化
 
 雇用については、従来の企業の誘致による雇用確保の手法ではだめではないでしょうか。雇用を確保するのではなく、雇用機会を確保するべきであり、地方で経済活動ができる環境を作り上げ小規模事業者の増加を促進させるべきでしょう。次に、小規模事業者の中の小売業を例として説明します。
 小売業が衰退していった過程は、流通構造の集中化と合理化にありました。輸入大国の日本の流通業界は、商社を通して問屋や市場に商品を集め各小売に卸していましたが、大手資本は、問屋や市場という中間を省いて、商社と流通大手とが直結することで、経費の削減などの合理化と、流通資本の寡占化に拍車を掛けました。そして、消費の動向の情報もまた、流通大手と商社に支配されていきました。つまり、大店舗の進出が地方の商店街に代表される小規模の小売業者を衰退させたのではなく、流通構造のラインからはずされたことにより、消費動向に対する情報が得られず 集客力がなくなったことを認めるべきでしょう。

 既得権益を主張していた商店街が、リストラによる大型店舗からの撤退に反対の行動をとった事例から見て、消費者の動きは活発であったのに、商店街のような小規模事業者が売れなかったのは情報が重要な要因だったと考えるべきではないでしょうか。インターネットはこの状況をどのように改善するでしょうか。現在のインターネットビジネスモデルと捉えられているのが、消費者と生産者を直接リンクすることによって、生産者側は在庫管理の問題や収益構造を改善し、消費者は家にいながらにして何でも揃う社会を近未来としています。

 しかし私は、消費者と生産者がリンクするのではなく、小売業者と生産者がリンクするべきだと考えます。地方の小規模事業者でも、インターネットでの市場が形成されることによって、大手小売業者と対等に情報と商品を仕入れできるようになり、その情報と商品を、各地域で発信してそして提供すれば、人々は、情報を求めて、大都市に行く必要もなくなり、人が定着し活気のある市民社会が構築されると考えるのです。

 それは、今の情報を求めて成立する都市での経済中心の社会が、インターネットで、情報伝達の距離と時間がなくなることで、人々の都市へと移動する行動が変化するということです。都市と地域との情報格差の解消は、地方経済の成立要件となるでしょう。具体的には、テレビメディアの広告を求めて寡占化した流通業の広告宣伝は、WEB広告で、地域限定の広告ができるようになり、テレビ広告による宣伝広告の寡占化の意味合いは薄れていくのではないでしょうか。インターネットで、低コストな宣伝広告を、小規模事業者ができるようになれば、限定した地域でも、少ないコストで宣伝広告ができるようになり、ビジネスは成立します。

 もし消費者と生産者が直接リンクしたならば、消費者は商品を選択するのに大きな労力をとられるか、または、集約化された情報流通ルートで、択一的に商品を選ばされることになります。そして、生産者と消費者を結ぶ流通ルートは、多くの人を支えられず、一部の選ばれた人々だけが、その恩恵を受けることになるでしょう。そして情報の恩恵を受ける側も受けられない側も、厳しく管理される社会となるのです。

(7) 間違ったリストラの概念
 
 雪印、三菱自動車、そして少し前ですが東海村の原発事故と、生産現場での致命的なミスが表面化しました。いずれの事件も、経営トップは、知らなかったとか、現場での独断専行によるものと、永田町さながらのトカゲの尻尾切りで一見落着としようとしています。しかし、今回の問題の、根本の原因は、間違った事業の再構築=リストラにあるのではないでしょうか。

 資本の集中にともない、組織を機能する情報を管理する間接労働者層は肥大しました。この間接労働者層の合理化=再構築として、コンピューターが登場するのですが、日本でのコンピューターの活用は、物流でいえば、鉄道とおなじで、決まった線区の中での情報を処理することであり、構築に多くの費用がかかり、そのランニングコストは莫大でありました。そんな中、いわば自動車のように、行動が自由にでき、廉価な設備としてパソコンが登場します。パソコンは、プラットホームの概念の登場で、その情報処理の行動範囲は飛躍的に向上しました。パソコンの情報処理の特性を、資本の集約化で肥大した間接労働者層を合理化=再構築する手段としたのが、アメリカであり、いわゆるリストラでした。

 それでは日本のリストラの実態はどうだったでしょうか。資本の集約化の過程で肥大化した間接労働者層に入るために、勤勉な日本人は,競って学力の向上を図り、それは終身雇用の制度のもと、世界でもトップレベルの組織を作りました。1980年代から始まった、アメリカのリストラ=事業の再構築を、バブル崩壊の前後から取り入れようとしたのですが、学力(覚えるだけの)こそが、経済の力と信じた国民は、リストラを、すべての労働者層とそれに替わる技術=FAをその意味するところとしました。日本版リストラ=首切りです。つまり間接労働者も直接労働者も関係なく、日本は人減らしに走ったのです。現場の労働強化は、世界でトップレベルにあった、日本の品質と技術を後退させました。

 この頃,生産現場はその生産性の合理化、生産性を高めるために直線ラインからU字ラインへ、単能工から多能工へと熟練工の育成に傾いていたことを知る人は少ないでしょう。日本の部品の調達は、その系列の組織でカンバン方式を生み出し、部品の品質管理は欧米を追い抜きました。

 しかし、欧米にならいコスト削減の旗印を掲げ、直接労働に従事する層をリストラの名のもとに、単価の切り下げや熟練工の首切りをしてしまったのです。日本の系列による産業構造を良しとするわけではありませんが、ナットひとつでも日々設計変更を繰り返し、その結果が品質の保持または向上に現れていたし、また最前線の現場は、単純な作業ほど熟練度で優劣が出ることも生産ラインは気づき始めていました。

 しかしトップからの指令は、コスト削減と人員整理でした。現場は、工程数の削減に必死になったのはいうまでもなく、それは単なる労働強化でしかなかったのです。

 それでは本来のリストラの目的であった、間接労働者に対してはどうだったのでしょうか。組織を運営するために、資本の増加に伴い肥大化した間接労働者層、いわゆるホワイトカラーと呼ばれる人々は、情報処理技術を単なる電子計算機のようにしか理解していませんでした。だから、パソコンが登場してリストラの言葉が出てきても、コストとメンテナンスに労力がとられるオフコンの導入に必死だったのです。結果、間接労働者の人員比率は変わりませんでした。
本来リストラによる間接人員の削減によって、現場と管理部門の情報の伝達が速くならなければならないのに、日本では、現場と管理部門の距離が離れていくばかりだったのです。高度成長がもたらしたものは、経済成長ばかりではありません。経済を支える技術の進歩ももたらしました。とりわけ、品質管理の分野では、学歴社会による平均値の均質化した労働力によって、製品や作業工程の品質管理は、世界のトップレベルになっていたのです。

アメリカが、情報技術を駆使して、間接労働者の生産性を向上させることで日本を抜き返しましたが、日本はリストラ=事業の再構築をする部門がわからなかったのです。日本の生産現場における品質管理は、コスト削減の名のもと、生産ラインは海外へ流出し、国内に残る付加価値の高い生産現場も、コスト削減を強いられたのです。知識の量で選別され、試験で振り分けられた労働者の価値は、固定のものとして捉え、企業はコストだけでその価値を判断していきました。
品質管理は、経験で積重ねる知識と技術を持つ労働者が作り上げたものとは認識しない日本がそこにありました。このような社会背景が、雪印や三菱自動車。それが東海村の原発事故を誘発したのです。そのように考えると、問題の本質は、間違ったリストラによるものが根本ではないかと考えざるを得ないのです。

 知識の量で選別され、試験で振り分けられた労働者の価値は、情報処理技術に取って代わります。しかし、経験で積重ねる知識と技術は人間の方が優れていることに気がつかなくてはいけません。本来勉強の意味は、「学問や技芸を学ぶことであり、ある目的のための修業や経験をすることである」ことを認識し、コンピューターと人間の住み分けを理解するべきです。

(8) ブロードバンド社会における社会資本の本質
 
 電子書籍販売を手掛けるインターネット関連ベンチャーのイーブックイニシアティブジャパン(東京都千代田区)は、電子書籍の販売サイト「電子書籍の本屋さん」を開設し本格的なサービスを開始しました。通常の一般書籍の半額程度の価格で提供するそうです。

 電子書籍では、著作権の切れた作品を中心に無料で、文学作品を提供する「青空文庫」というサイトもあります。無料で書籍のデーターを提供することが、経済として成立するのかどうかわかりませんが、書籍や音楽など、インターネットによるビジネスは本格的になるでしょうし、情報を紙やCDのような物質に置き換える無駄をなくすことは、環境にもプラスに寄与するでしょう。

 ただ、その価格の内容についてですが、書籍の場合は、著作権料と製本代、そして運搬費と販売費などから、販売価格が決められていきますが、インターネットによる書籍の価格はどのように構成されるのでしょう。

 資本主義では、資本が労働力を使い利潤を上げていきます。資本は自由経済の国家の中では個人のものです。これとは別に社会資本というものがあって、国民福祉の向上と国民経済の発展に必要な公共施設。道路・港湾・工業用地などの生産関連と,住宅・公園・上下水道などの生活関連に大別されています。

 社会資本は、国家のもので、日本の主権は国民にあるのですから、国民のものです。故に社会資本では、特定の人間への利潤を求めてはいけません。

 それでは、インターネットを利用して、情報を売り買いすることはどうでしょう。情報をインプットする人件費とシステム代はいいとして、ほかに価格を構成するものがあるでしょうか。この情報を売り手に伝えるのは電波であり、人間つまり労働者は介在しない点に着目するべきです。

 次に、電波は誰のものでしょう。電波は、電話、テレビ、そしてインターネットとブロードバンドの時代に入っています。ケーブルテレビの普及が遅れている日本では、テレビの受信は無料という考えが強いですが、対価を払って受信する時代も近いでしょう。そうであるとすると、電話やテレビやインターネットが、国民福祉の向上と国民経済の発展に必要な公共施設とするならば、電波そのものは社会資本といえるのではないでしょうか。

 電波を社会資本とするならば、電波を送信する側が、送信することで利潤を上げるとすると、電波の使用料を当然支払うべきではないでしょうか。なぜなら受信する権利は国民に平等に与えられていますが、送信する権利は、国民の極一部の人間に限定されているからです。電波を社会資本とすると、送信する側と受信する側が対等の立場ではないことは、資本主義経済では不公平なことになるでしょう。社会資本が国家のものであるならば、それを利用して利潤を上げる者は、その資本形成に参加しなくてはいけません。

 たとえば、コニシキというタレントがいますが、彼は、テレビのコマーシャルに出て出演料を収入としていますが、彼の収入は、電波という社会資本を使いその付加価値をつけています。テレビの受信の権利はありますが、発信する権利は万人に与えられるものではありません。テレビのメディアを利用して、付加価値をつけるのはいいのですが、社会資本を使うのであればその資本の形成に参加しなければならないでしょう。

 もう一例、野球選手を例に挙げますと、野球選手の年俸は、球場に足を運んでくれた観客の入場券がその原資となります。球場の管理費や、維持費、そして活躍に応じてそれぞれの選手の年俸が決まるはずなのですが、庶民の年収とはるかにかけ離れた今の、野球選手の年俸も、テレビの放映権なくしては成立しないでしょう。ということは、野球選手の年俸も、社会資本である電波を使って利潤を上げているということにならないでしょうか。そうであれば、彼らは、社会資本の形成に参加しなければならないのではないでしょうか。

 もちろん、NTTの電話回線は、社会資本であり、その管理をNTTに委託するのは構いませんが、その権利をNTT一社に与えるのはおかしいのです。

 私は、電話やテレビ、そしてインターネットのインフラは社会資本であると思います。そしてその社会資本を利用して、付加価値を付けて収入を得る企業や個人は、その社会資本の形成に参加するべきだと考えます。その参加形態は、利用料を取るのか、課税にするのかはわかりませんが、社会資本を利用する経済形態を理解するべきではないでしょうか。

第一章 原理資本主義

第二章 時代が加速している21世紀

第三章 ベルリンの壁の崩壊から学ぶ経済のあり方

第四章 日本経済を考える

第五章 日本経済の迷走の原因は「企業の再生」にある

第六章 新日本列島改造論

第七章 担保主義に代わる金融システムの提言

第八章 経済の元凶である退職金と年金制度

第九章 政権交代の主役は国民である

第十章 永田町に競争主義の導入を

第十一章 政策提言

第十ニ章 CDS債が核のボタンであるという意味

著者からのメッセージ

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