第九章 政権交代の主役は国民である

(1) 「小さな政府」と「大きな政府」の表現は不適当

 政府は道路や橋、警察、消防、国防など、最低限のことをして、市場経済に介入しないとする「小さな政府」と、市場経済が生む、「貧富の差」、恐慌、失業、労働問題と社会問題に対応するのは、公共事業の需要創出政策だとして、市場経済に公需を作り出すことを「大きな政府」とする概念がよく使われています。
 
 しかし、誰が訳したかは知りませんが、この「小さな政府」と「大きな政府」という表現では、「何が」大きいのか小さいのかの、「何」がありません。主語が明記されていない表現を、曖昧というのであり、「小さな政府」とか「大きな政府」という抽象的で曖昧な表現を用いて、政府の経済政策を語ってはいけません。
 
 「小さな政府」とか「大きな政府」という抽象的で曖昧な表現は、根本的な問題ではありますが、そもそも、「小さな政府」とは市場経済のあり方を求めたものであり、「大きな政府」は、税の再配分のあり方を求めたものではないでしょうか。つまり、経済政策として対立軸となるものではないと考えます。

 なぜなら、民主主義が進歩することは、国民の社会資本が蓄積されることとなり、社会資本の拡充を求めない民主主義の国家はありえないからです。つまり、民主主義の国家において、市場経済の中では、民需と公需は混在するものなのです。

 現代において、いわゆる「夜警国家」で国家が成立することは不可能であり、社会資本の整備は、市場経済に組み込まれている現実を理解するべきでしょう。従って、「小さな政府」と「大きな政府」の表現は不適当であり、そうではなくて、「税の再配分が大きい政府」か、「税の再配分が小さい政府」かというように、税の再配分を基本に、政権の対立軸を設けるべきであると考えます。

従って、ケインズは財政出動という形式で、割引現在価値の定理に従って需要の公需の拡大を提唱したのであり、これが、戦後に日本経済の基本政策であったのです。

(2) 古典的な経済学の概念を捨てるべし
 
 市場経済主義と市場経済を否定した社会主義は、ともに、資本主義の矛盾を統制経済に求めましたが、統制経済は既得権益層の暴走を制御できず、また既得権益者と非既得権益者の経済格差の広がりは、民主主義を否定します。

 原理資本主義は、公需による統制経済を否定していません。公需は、社会整備を促進し、社会資本の豊かな国家を実現するからです。また、資本主義の矛盾である好景気と不景気の、経済の循環の振れを、公需による経済統制を拡大することで小さくしてきたのも事実であるからです。
 
 しかし、統制経済で生まれる既得権益層、つまり、公需に依存する企業や労働者、そして寡占化した資本は、非既得権益層との経済格差を生み出し、それが世襲制などで、階層間移動がなくなる社会は、活力とモラルは硬直し民主主義も硬直させます。権力や企業の世襲制などで硬直した社会は、経済も硬直しその既得権益は民主主義と対立するのです。
 
 我々は、資本主義や社会主義、市場経済主義と統制経済、「小さな政府」と「大きな政府」という古典的な経済学の概念に縛られず、グローバル経済と反グローバリズム、そして、アメリカから押し付けられたイデオロギーを漠然と受け入れるのではなく、ここ10年間の歴史を検証し、経済を見つめ直す必要があるのです。

(3) 貨幣経済である限り資本主義しか存在しえない
 
 私は、経済とは、貨幣経済である限り資本主義しか存在しえないのであり、資本主義の形態の差で統制経済だったり自由経済だったりすると考えています。自由経済である資本主義と統制経済である社会主義は相対関係にあるものではないと考えます。
 
 次に、資本論では、資本家階級と労働者階級があり、生産手段を持っている資本家階級が、労働者を賃金という対価で労働力を使い、利潤を搾取するとしていますが、資本家と労働者は、絶対的なものではなく、階層間移動(資本家階層と労働者階層の行き来)が自由なものであり、搾取する側と搾取される側とに分けるべきではありません。階層間移動は自由なものであり、それを阻害したり、絶対的なものとする社会は、硬直した非民主主義の国家であるからです。

 経済は資本が寡占化していく過程で成長し、その産業の寡占が終わると、新しい資本の寡占が始まります。寡占が成長していく過程に規制や認可などで統制経済が生まれますが、新しい資本の寡占が生まれるとき、そこは自由経済が必要です。経済は技術を伴い発展しますが、それは、資本が寡占化していく成長の繰り返しであり、その成長過程で、自由経済と統制経済もまた繰り返すものであると主張しています。

(4) 税の再配分で決める政府の性格
 
 「小さな政府」と「大きな政府」という表現は、何が大きいのか、何が小さいのか曖昧であり、小さい政府というものが、古典的な「夜警国家」による市場経済主義で国が運営できるとは誰も思わないでしょう。

 また、公需を主体とし経済を牽引する「ケインズ主義」は、きわめて社会主義的であり、「ベルリンの壁の崩壊」の原因である、既得権益の固定化と、既得権益者と非既得権益者との経済格差を生み、経済運動の活力とモラルを減退させたことと同じ問題を抱えています。

 民主主義においては、社会資本の整備や、社会保障制度の拡充を求められることは当然であり、税の再配分が民主主義を支えています。問題は、その税の再配分のバランスでしょう。これは、市場経済における公需の影響を少なくし、民需を主体に、活力とモラルで経済を牽引する政策と、公需による需要創出による経済の牽引を政府が行う政策とに分かれるでしょう。

 ベルリンの壁の崩壊後、資本主義と社会主義という対立の構図は消えました。社会主義は、中央集権システムで生まれる既得権益を制御できなかったのです。富の分配が階層化され、民主主義は全体主義に埋没し、既得権益で縛られ、活力とモラルをなくした経済は崩壊しました。また、ケインズの公共投資による経済政策も、社会主義同様に、既得権益が国家を徘徊し、経済格差は階層化し固定化しました。結果、実体経済の活力とモラルはなく、日本型社会主義経済といわれる経済活動は、停滞しているのが現実です。

 経済は、資本主義の市場原理において、自由経済と統制経済が繰り返す運動体であるといいました。自由経済が進歩すれば、既得権益と資本の寡占化が進むのは必然で、反比例して経済運動の活力とモラルが減退します。経済の破綻は、倒産という経済運動で、寡占化した資本が拡散し、既得権益が壊れることを意味します。つまり自由経済の初期の段階に戻ることを意味していて、経済は自由経済と統制経済が繰り返されるものなのです。

 この経済の循環の転換期をいかにするかということが、経済学であり経済政策となります。そして、政府は、どちらの経済に軸足を置いているかで、その政府の性格がわかるはずです。税の再配分のスタンスと、自由経済か統制経済のどちらに軸足に置いているかを、縦横軸で表せば、政府や政党の性格が明確になり、国民が自分達の権益にとって、どちらの政権を選択すればいいのかの指針となるでしょう。

(5) 税の再配分で決まる経済政策
 
従来の政府は道路や橋、警察、消防、国防など、最低限のことをして、市場経済に介入しないとする「小さな政府」と、市場経済が生む、「貧富の差」、恐慌、失業、労働問題と社会問題に対応するのは、公共事業の需要創出政策として、市場経済に公需を作り出すことを「大きな政府」という分類では、現代の経済は説明できないからです。

経済は、統制経済と自由経済を繰り返し成長するものであるとして、経済において、税の再配分による「公需」が、国家の経済に占める割合の大きさで政府の性格が決まると考えます。現代の経済を理論立てて説明するならば、税の再配分が大きい政府か、税の再配分を小さくする政府なのかという分類をするべきです。

前者の税の再配分が大きい政府は、公共事業など社会整備にウエイトを置く政策となり、雇用対策は、公需の需要の創出で吸収する政策となります。つまり、従来の雇用保険制度を基本に、公需による景気刺激で、有効求人倍率を引き上げることを目的とする政策です。

 これに対して、後者の税の再配分を小さくする政府は、規制などを撤廃し、市場原理に準じた経済に委ねる政府です。政府は市場経済のルールを監視して、自由の秩序を保つ努力をしなければなりません。そして、市場経済からはじかれた人々を救済するための、セーフティーネットに税配分のウエイトを置く必要が出てくるでしょう。ただし、このセーフティーネットというのは、雇用保険の拡充などではなく、ワークシェアリングの導入や、退職金制度を年金制度に組み込むなどの社会保険制度の平等化となります。
 
 政府は、統制経済と自由経済のバランスと、税の再配分のバランスの、舵取りを求められるわけであり、それは、それぞれの政策で権益を主張する人々の割合で左右される状態が民主主義のあるべき姿です。

(6) 公益法人の定義が間違っている

[現行の公益法人の定義]
 公益法人とは、祭祀、宗教、慈善、学術、技芸その他公益に関する社団または財団であって営利を目的としないもの。これに対して、営利法人とは、営利を目的とする法人をいい、株式会社・有限会社等の会社が営利法人とする。 → 営利を基準としている。

[原理資本主義の公益法人の定義]
 特定の目的で集められるお金を運営管理する事業と、国や地方自治体の補助金や委託金で運営されている事業を公益法人とし、市場で利益を追求する事業を営利法人とする → 資本(資産)の性質を基準とする

 現状の民法では、特定の目的を持って集められたお金を運営管理する財団法人と、人の集まりで構成される社団法人に分けて、利益を得る行為としての営利を目的とするかしないかで、公益法人と営利法人に分類しています。

 法人とは「人以外のもので法律によって権利能力を認められたもの」を言いますが、法人が、経済活動上の権利を与えられるということは責任も付与されるのであり、その責任は負債として法人が負います。

 資本主義社会での経済活動は、資本と負債が必ず存在します。負債のない法人活動では利益が出ているということです。つまり、利益の存在しない法人活動は、資本主義社会では存在しないのであり、利益を求めない経済活動は存在しません。

 従って、利益を上げずに負債も発生しない経済活動は、論理上、社会主義社会では可能でしょうが、資本主義社会では成立しません。従って、利益と負債は表裏一体のものであり、営利を目的としない公益法人という定義は間違っています。

 原理資本主義では、経済は「公需」と「民需」に分けていますが、公需の中での法人活動と、民需の中での法人活動は、明確に分類しなければなりません。従って、社会一般の利益を求める法人活動を公益法人とするには異論はありません。問題は、何を基準に分類するかということです。

 原理資本主義では、その基準を、資本(資産)の性質で分類することを提言します。つまり、特定の目的で集められるお金を運営管理する事業と、国や地方自治体の補助金や委託金で運営されている事業を公益法人とし、市場で利益を追求する事業を営利法人と分類するのです。

 寄付金などで運営する法人や、国からの補助金や委託金で運営する法人は、公共の利益のために事業活動を行うのであり、事業による利益が出た場合は、その利益は主権者である国民に還元すればいいのです。

 そして、寄付金や補助金というのは、公益サービスに対する対価と考えるべきであり、損益が出た場合には、寄付金や補助金の増額で収支のバランスを取ればいいのです。その判断が、国の予算であり行政の仕事です。そして、その決定権は、国民の代表である立法府にあるのです。

 営利法人の売上に相当するのが、公益法人では寄付金や補助金であり、営利法人が利益を株主に還元するのに対して、公益法人では、出資者である特定のサービスを受ける人々や、国に利益を還元するべきでしょう。

 このような考えから、特定の目的で集められるお金を運営管理する事業と、国や地方自治体の補助金や委託金で運営されている事業を「公益法人」とし、民間市場で利益を追求する事業を「営利法人」とすることを提言します。

(7) 労働者=市民ではありません
 
 今の政治のキーワードは市民と既得権益です。かつての資本家対労働者という対立構造では、市民という概念を説明できない時代に入っています。

 現代の社会構造は、株式の配当や利子・家賃・地代などの労働しないで収入を得る「不労所得者」と、労働の対価として所得を得る「労働所得者」との階層の分類を基本とするべきでしょう(いわゆる肖像権で収入を得ている芸能関係者は、前者の「不労所得者」に分類されます)。その上で、後者の労働所得者の階層を市民と定義するべきでしょう。

 市民を労働所得者層と定義したとして、今度は、その市民の中の既得権益者か非既得権益者かに市民は大別されます。なぜなら現代は、公需と民需で成立する経済社会であるからです。

 今の日本の政治は既得権益者寄りの社会であり、公需や寡占化した企業の労働所得者の声を政治に反映する政党が自由民主党です。しかし、民主党の支持団体の労働組合も、公需や寡占化した企業の労働所得者であり、社会的な分類では同じ階層なのです。

 市場経済社会では、「不労所得者」と「労働所得者」という階層の対立が基本であり、「労働所得者」の中に、既得権益者層と非既得権益者層の対立があります。政治において市民の定義は、後者の「労働所得者」を指しています。鈴木宗男の支持者も市民であり、町のラーメン屋の店主もまた市民なのです。そして、鈴木宗男の支持者は既得権益者であり、町のラーメン屋の店主は非既得権益者なのです。

 これを踏まえて今の日本を考えれば、自由民主党と民主党は、それぞれに都合よく国民や市民の声の代弁者になっていて、実際には、ともに既得権益者層に軸足を置いているのではないでしょうか。このことを、国民は感性で感じているからこそ、自由民主党の対立軸の政党として民主党を認めないのです。非既得権益者層の市民は無党派層として存在しています。

 公需と民需のバランスで成立する経済社会では、市民は、既得権益者層の声と、非既得権益者層の声に分かれるのであり、それぞれの市民の声を政治に反映する政党があってしかるべきです。その意味では、既得権益者層の市民の声を政治に反映する政党と、非既得権益者層の声を政治に反映する政党の二大政党は合理的な政治システムといえます。

 そして、その政治構造の中で、基本的な階層対立である、「不労所得者」と「労働所得者」の対立は、税体系を軸にその均衡が保たれるのです。それが税の中立を意味します。そして、その緊張が健全な民主主義を支えるのではないでしょうか。

(8) 国会議員は、経済政策のスタンスを明確にするべし

1 日本経済の現状把握の分類 

 経済政策を議論する時に、日本経済の現状をどのように捉えるかは重要です。永田町での日本経済の現状把握は下記のように分類できるでしょう。
 
@ デフレは、信用供給の収縮によって、貨幣供給量が流通に必要な量を下回っているのであり、銀行の不良債権問題を解決したり、土地価格を引き上げれば経済は再生する。
A デフレは、需要不足が原因であり需要を創出することが重要だ。需要の創出は、公共事業を中心とする財政出動か、企業の再生がある。
B デフレは、需要に対して供給が過剰なのであり、過去の10年間の経済政策で繰り返した公共事業の分野の供給能力は過剰である。従って、この公共事業の分野の、企業の淘汰を受け入れて、他の成長産業に資本と人的資本を移管するべきである。
 
2 日本の経済政策の方向性の分類
 
 次に、日本の経済政策の方向性は、下記の4つに分類されます。
 
A 均衡財政を基本とし、企業再生による生産調整を受け入れ、現行の資本の枠組みを維持し、その枠内の企業の活力に日本経済の再生を委ねる。
B 均衡財政を基本とし、倒産という企業の淘汰による生産調整を受け入れ、「好景気と不景気の循環の法則」に日本経済の再生を委ねる。
C 積極財政を基本とし、従来の公共事業への財政投資による需要創出政策。
D 積極財政を基本とし、従来の公共事業の産業の生産調整を受け入れ、新しい分野の公共事業への財政投資による需要創出政策。
 
3 日本の政治状況における政党と経済政策の色分け
 
 以上を踏まえて、日本の政治状況における経済政策の方向性を考えると、下記のようになるでしょう
 
○ 小泉政権の、日本経済の現状把握は、@とB。そして、経済政策の方向性は、A。
○ 自民党の抵抗勢力は、日本経済の現状把握は、@とA。そして、経済政策の方向性は、C。
○ 民主党の日本経済の現状把握は、@とA。そして、経済政策の方向性は、D。

4 問題点は、Bの経済政策をとる政党がいないこと

 ここで言えることは、自民党の抵抗勢力と民主党は、求める経済政策は違いますが、日本経済の現状把握は同じであるということです。つまり、自民党の抵抗勢力が既得権益を維持しようとしていることを裏返せば、民主党は、その既得権益層を交代させることになります。つまり、共に既得権益層の代弁者としての政治的地位を求めていることになります。
 
 つまり、小泉政権は、従来の既得権益層に対しては、企業の再生という保護政策に出ていますが、この保護の対象となる既得権益者は大企業が中心であり、その数は限られています。自民党の抵抗勢力が、小泉政権と対立するのは、まさにこの部分であります。これに対して民主党は、既得権益層の総すげ替えを要求しているわけですから、小泉政権とも自民党の抵抗勢力とも意見は対立します。
 
 ただ、注視していただきたいのが、Bの経済政策を取る政党がどこにもいないということです。経済政策のCとDは、共に社会主義的な「統制経済」であり、Aの経済政策は、管轄下に大企業と政府を置く「統制経済」です。つまり、共に、統制経済であり、従来のケインズ政策を基本としているのです。
 
 この日本のケインズ政策から脱却した、自由経済を基調とする市場経済の、Bの経済政策の、スタンスの政党がない状態こそが、日本が社会主義国家である証拠ではないでしょうか。社会主義者の与党に対して、対立軸を示すのならば、野党は、資本主義の立場に立つべきでしょう。
 
 社会主義的な経済社会もよし、寡占化した大企業が支配する経済社会もいいでしょう。しかし、自由経済を基調とする市場経済の社会を国民に選択させる政党が、何故日本にないのでしょうか。
 
 古賀誠や菅直人らの社会主義者の統治を望まない国民や、アメリカの51番目の州としての日本を望まない国民もいるはずです。それなのに、何故、彼らの声を代弁する政党がいないのでしょうか。いわゆる無党派層の声を反映する政党が何故、日本にはいないのでしょうか。
 
 国会議員は、今の日本の経済状況での、現状把握とその対処としての経済政策のスタンスを、各々明確にするべきではないでしょうか。

(9) 政権交代は、国民の求める権益のバランスの結果だ
 
 政権交代とは、国民の求める権益によって政権が支えられているのであり、そのバランスの変化が政権交代となるのです。政権を支配する政党が変わることではなくて、国民の求める権益者のバランスが変化することで決定するものであるといえるでしょう。
 
 つまり、国民全体が求める権益を180度変えるのは革命となりますが、選挙という民主主義の中での政権交代は、どの層の国民の権益を政治で実現するかであり、国民全体の権益を実現することを望むものではないのです。

経済が、自由経済と統制経済を繰り返すものであるとすれば、どちらの経済政策を国民が望むのかを政治家は国民に訴えればいいのであり、支持する有権者の声を実現するのが政治の役目でしょう。

 ただ、これはあくまでバランスの問題であり、他方を排除するというものではありません。統制経済から自由経済にシフトするとき、今までの公需に頼っていた人々は、税の再配分によるセーフティーネットで守られるわけであり、決して他方を排除するものではないと、胸を張って言える政治家の登場が待ち望まれます。
 
 自由民主党を批判する前に、自由民主党を支持する国民の声を真摯に聞くべきでしょう。彼らの声に耳を傾けることで、自由民主党が守る権益者以外の人々が見えてくるのであり、その人々の声や権益を政治で実現することが政権交代のあるべき姿ではないでしょうか。
 
 税の再配分で分類すれば、大企業とその労働者、そして公務員を中心とする労働組合は、税の再配分を多くする政府を支持することとなります。逆に、税の再配分を小さくする政府は、経済の活力の源である、中小零細企業やその労働者らが支持する政府となり、その支持層は二極化されるでしょう。政府の支持基盤の違いで、取るべき政策の差異が明確となり、その支持層が、劇的に変化するときが経済政策をめぐる政権交代となるべきです。
 
 政権交代が、自由や理念を求めて実現した歴史はありません。すべて、経済的問題が社会不安となり、その不安を解決する矛先が、自由や理念ではなかったのではないでしょうか。今の日本を救うのは、友愛だのリベラルなどの理念ではありません。理念では国民はついてこないのです。そうではなくて、どのような権益を与えてくれるのかで、国民は行動を起こすでしょう。

今は、自由民主党の税の再配分を享受する権益層、また、寡占化した資本を既得権益とする層と、その権益を享受していない層のバランスが崩壊しているのです。だから自由民主党が揺らいでいるのであり、後者の権益を主張する政権を国民は求めています。これは、今の既得権益層で構成される与野党の枠組みから脱却し、国民に向かって、二者択一の選択を訴えるしか日本の再生はできません。政党の枠や、既成の経済概念から脱却し、政治と経済の基本に戻り、日本語の論理が成立する政策で、政治や経済を国民に語るべきです。

第一章 原理資本主義

第二章 時代が加速している21世紀

第三章 ベルリンの壁の崩壊から学ぶ経済のあり方

第四章 日本経済を考える

第五章 日本経済の迷走の原因は「企業の再生」にある

第六章 新日本列島改造論

第七章 担保主義に代わる金融システムの提言

第八章 経済の元凶である退職金と年金制度

第九章 政権交代の主役は国民である

第十章 永田町に競争主義の導入を

第十一章 政策提言

第十ニ章 CDS債が核のボタンであるという意味

著者からのメッセージ

Since 2004.05.10 total