千利休と秀吉の真実


1 バブル経済の原型は、茶湯に用いられた茶器

バブル経済の原型は、茶湯に用いられた茶器。織田信長は、この茶器の価値を吊り上げることで通貨供給量を拡大させた。

甲冑製造などに用いる鹿皮などの皮製品の商いで財を形成した堺の商人は、鉄砲などの鉄や鉛を仕切るようになり、商人による自治国家を形成します。この堺の経済力を武力で制圧した信長は、当時流行していた茶の湯の茶器を徴収します。

この堺を支配した織田信長は、通貨の代用として茶器を用います。信長は、家臣に与える知行(土地)とは別に茶器を与えることで、恩賞に差をつけます。

米や塩などの主観的価値ではなく、客観的価値を茶器で代用する。これこそがバブル経済であることを理解していただきたい。

2 本能寺の変を画策したのは千利休

信長は、所有していた茶器とともに本能寺で殺されます。この茶会には、茶番頭である千利休が参加していないと歴史書には書かれていますが、真実は真逆なりで、この茶会を仕切ったのは間違いなく千利休です。

信長は、この茶会で集まった公家らに、イスラム教の導入を示唆します。
本能寺の変の真実

安土城の天守閣をモスクとし、イスラム教のメッカのアジア版として豊受大神宮(伊勢外宮)の建設を進めていた信長はその国家構想を、本能寺で公家に発表したのが本能寺の茶会だったのです。

この茶会の計画を事前に知らされた利休は、キリスト教徒であるイエズス会に情報を流します。イスラム教と対峙する宣教師らは、延暦寺の僧兵を中心とした反乱軍を組織して、利休が調達した武器を購入して彼等に与え、本能寺で乱を起します。

利休は、イエズス会からは、武器の売買で金銀を手に入れ、本能寺に集められた茶器を燃やせば、今後、茶器の価値は利休が支配することができます。

3 秀吉を天下人に画策したのは利休

毛利攻めの途中であった明史光秀は、イエズス会の誘いに乗らず、堺にいた徳川家康ともに関東に逃げ、天海として江戸の都市整備に尽力します。

利休は、秀吉を信長の後継者とするために、毛利側との和睦の資金となる兵糧を調達し、空身で戻る秀吉の軍隊の武器を用意します。

京に戻った秀吉は、宣教師らの煽動で決起した反乱軍を抑えて、信長の後継者を宣言します。

4 秀吉の兵糧攻めと武器商人としての千利休

兵糧攻めは秀吉が好んだ戦法として知られますが、いわゆる古典的な兵糧攻めは、1578年の播磨三木城の兵糧攻めで、飢え殺しで知られる1580年の鳥取城の兵糧攻めは、従来の兵糧攻めではなく経済的な要素が加わります。

鳥取城城主の吉川経家は、米の不作による高騰で城内の兵糧を高く売り、それを原資にり鉄砲を調達します。

鉄砲を売ったのは千利休であり秀吉も了解しています。秀吉は、鉄砲と引き換えに手に入れた兵糧を労働者として雇い、鳥取城の包囲する砦を瞬く間に築城します。もちろん、領民は秀吉を歓迎します。

秀吉は、交戦することなく3カ月で開城させることで、城内の鉄砲などの武器を徴収(回収)します。

これに味をしめた秀吉と利休は、北条氏との小田原攻めでも同じ手を使います。利休は安値で大量の武器を北条氏側に売り渡し、秀吉側は、その代金として受け取った兵糧で領民を買収し、一夜城を築いたり、秀吉自身が側室たちを呼び寄せるなど宴会三昧を北条軍に見せびらかしました。

秀吉と利休の企みを知らされた北条氏政は、鳥取城の二の舞をさけて降伏します。
しかし、秀吉は、信長を裏切った利休を信頼することはせず、天下統一後に殺します。利休が切腹したというのは作り話であり、利休が絡んだ陰謀を歴史がら抹殺する必要があったのです。
2016/6/30記

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