孝明天皇の暗殺

家定の死去で、徳川の血を引く男系天皇をつくるという公武合体政策は頓挫しましたが、1862年、幕府は孝明天皇を守護するという名目で男系の会津藩の松平容保を京都守護職として送ります。

男系天皇を求める急進的な尊王派から孝明天皇を守護するのはもちろんですが、孝明天皇(女)と容保(男)を結ばせて天皇家の世継ぎとなる男の子を作ろうとする公武合体政策の継続でした。孝明天皇(女)は31歳、松平容保(男)は26歳です。

睦仁を手中に収めようとした蛤御門の変に失敗して朝敵となった長州の田布施村の両班派閥は、蛤御門の変の首謀者を藩の重鎮に押し付けます。そして、1865年1月12日に高杉晋作が馬関で挙兵して、クーデターを起こし、藩主である毛利敬親を支配下におきます。(毛利敬親は女性であったと思います)

薩摩でも城下の高麗町の両班派閥が西郷隆盛を中心に倒幕派政権を成立させました。長州藩の西郷は、幕府からの第二次長州征伐の要請を断り、長州と足並みを揃えます。

1866年6月に始まった第二次長州征伐は、7月に幕府側の総大将である14台徳川家茂が大阪城で急死。大将が不在の中、幕府軍は連敗を重ね、幕府軍は和解に持ち込むのがやっとでした。

朝廷が長州に停戦の勅許を与えて、京都に長州の急進的尊王派がまた活動しはじめます。そして、1867年1月30日、孝明天皇が暗殺されます。

京都には、長州の伊藤博文や乃木希典などが、三条実美や桂小五郎の下で活動していて、孝明天皇暗殺の実行部隊は、伊藤博文や乃木希典が関係していたと考えます。

伊藤博文は、ハルビンで韓国人の安重根によって暗殺されますが、安重根は暗殺の動機として孝明天皇の暗殺に伊藤が関わっていたと供述していて孝明天皇の暗殺が歴史の闇から浮かび上がりました。

また、大室寅之助こと明治天皇が1912年7月30日に死去したときに、乃木希典はに自害し殉死したとされていますが、乃木希典は、田布施村系譜ではなく武士の系譜であり、孝明天皇の暗殺からはじまる薩長の両班派閥の歴史の改竄に、自責の念に耐え切れずに自害したのであり、殉死ではなく自殺だとか思います。

孝明天皇の暗殺後、徳川慶喜は睦仁の摂政として諸藩をまとめようと奔走します。

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