平家と鎌倉幕府の滅亡の意味

武家の棟梁は女性でありシャーマニズムで統率し、朝廷は、男性の棟梁が貴族や奴隷を律と階級で統率しました。つまり、武家は女系社会であり、朝廷は男系社会といえます。今日の歴史では、閨閥の流を女系としますが、これは詭弁です。女系とか男系というのは、支配者もしくはリーダーが女性系譜であるのか男性系譜であるのかという違いです。

平治の乱で敵対した源義朝の子である頼朝と義経を殺さなかったのは男子だからです。京の鞍馬寺に預けられた義経の稚児名を遮那王で、王とつけられていることで男であることが分かります。

頼朝は伊豆に流刑されますが、北条家時子と結ばれます。北条家時子はすぐれたシャーマンであり、時子は平家をこころよく思わない武士をまとめていきます。頼朝は時子の重臣として働きます。

つまり、現代の歴史の常識とは真逆で、関東の武士をまとめたのは北条家の棟梁である時子で、彼女は優秀なシャーマンでした。頼朝は時子の臣下にすぎません。

大和朝廷は平家を倒すために時子を利用します。関東から兵を派遣してもらい、京都の義経を棟梁として平家と戦わせます。関東の武士の棟梁は女系でしたから、現代に伝えられている活躍はしていません。

平家の滅亡後、大和朝廷は、頼朝を征夷大将軍として関東に幕府を開くことを命じます。そして、朝廷の信任を受けていた義経は、頼朝に男系による関東の統治に協力を申し出ます。鎌倉は朝廷の援助で、寺が造営され町が整備されます。 しかし、実際の権力者は時子であり、義経は関東武士の信任を得られるはずもなく、頼朝は義経に討伐の兵を向けます。

義経の殺害後、時子の後をついで関東武士の棟梁となった尊氏(女性)は、鎌倉をすてて京に上洛して幕府を開くことを決意します。彼女は、朝廷の男系棟梁の幕府を否定したのです。

尊氏は京に上洛し、女系将軍の幕府を朝廷に認めさせ、足利幕府を京で開きます。

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