尊王攘夷と公武合体

1853年、アメリカの東インド艦隊司令長官のペリー総督が日本の浦賀に入港しました。蒸気で動く黒船に幕府は動揺します。

当時の日本は欧州での産業革命やアジアでの植民地などの海外の情勢を聞いてはいましたが、目前に現われた黒船の圧力は相当なものだったでしょう。

翌年に再来するといって去ったペリーに対する対応で激論が始まります。この議論の中で、当時の幕府や天皇は女性であり、体格でも勝る男系社会である欧米人と交渉するのを心配する声があがります。

そんな声に対応するように、女将軍の慣習を捨てて、男性を将軍にするべきとの声があがります。しかし、君主である天皇も男系にするべきとの尊王論が水戸藩を中心に起こります。

尊王論を主張する松平慶永(越前藩主)、島津斉彬(薩摩藩主)ら一橋派は男性である徳川慶喜を13代の将軍に押しますが、京の孝明天皇(女性)が井伊直弼ら紀伊派は、女性である家定を将軍とすることで押し切ります。

翌年1854年、横浜沖に来航したペリーは、徳川幕府に日米和親条約の調印を迫り、幕府はやむなく調印します。このことに、尊王論者は攘夷論と結びつけ井伊直弼や幕府を激しく非難します。

尊王攘夷論者の行動は、下級郷士や庶民には孝明天皇に対する忠臣と見られていましたが、長州や薩摩では、女性天皇である孝明天皇の排斥を意味する運動でした。

1858年家定が急死すると、再び14代の将軍継嗣問題が起きます。井伊直弼は尊王派の意見を取り入れて男性の家茂を擁立します。しかし、島津斉彬ら一橋派は、男性の慶喜を再度推挙してきました。

井伊直弼は、急進的な尊王攘夷論者を弾圧し、家茂を将軍とすることに成功しました。そして孝明天皇の妹の和宮を家茂の側室とすることで、天皇家に徳川の血筋をもつ男系の天皇を擁立する策を立てました。これが、公武合体政策です。

公武合体政策は、尊王論者に歩み寄りつつ、徳川の血筋のはいった男系天皇を立てて、列強諸国との交渉に臨むという攘夷論者の政策でした。

問題は、徳川幕府の将軍職と天皇は女性であったということを前提としなければ、尊王攘夷も公武合体もこの時代の歴史を正しく評価できないのです。

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