事故の真相を解く鍵は、生存者の手記とコックピット内のボイスレコーダーにある。


生存者は多数いたのに救助しなかった?

事故報告書では、21時20分には、米軍の座間基地から出た救難ヘリUH−1が墜落現場に着いています。しかし、このヘリは横田基地からの命令で救助をせずに帰還します。

私は、落合さんが女の人の「早くきて」を聞いたあと、しばらく時間が過ぎて、「ようし、ぼくはがんばるぞ」という男の子の声を聞いいていますので、この自衛官が遭難現場についたのは、8時ぐらいだと思います。

なぜなら、落合さんは男の子の声を聞いてすぐにヘリコプターの音が聞いきているからです。このヘリコプターが、米軍の救難ヘリUH−1であることは間違いがありません。

米軍の救難ヘリUH−1は救助活動をせずに現場を離れます。


やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました。「助けて」「だれか来て」と、声も出したと思います。ああ、帰って行く・・・・・。
このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした。


救助を中止してヘリコプターが去ったあと、落合さん意識が薄れていったと証言していて、つぎに気がついたときには、「気がつくと、あたりはあかるかった。」と朝になっていたと証言しています。

米軍の救難ヘリUH−1が現場を去った21時30分、墜落現場の御巣鷹山方向から信号弾が上がったとの証言があり、これを合図に、上野村三つ岐に待機していたその自衛隊員が徒歩で現場に向かったといいます。落合さんは、この自衛官たちを記憶していません。

翌日の4時30分に航空自衛隊救難隊のヘリが、続く5時10分の陸上自衛隊ヘリが墜落現場を確認。5時37分の長野県警ヘリによる墜落現場の確認。

これらのヘリからは現場での自衛隊員の活動の報告はありません。上野村三つ岐から出発した部隊の現場到着は早くて12日の23時だとすると、翌日の4時には撤収していたと思われますが、もちろん救助の記録はありません。

13日の8時30分にやっとヘリから救助隊員がロープで降下。地上からの救助隊と合流し、11時に落合さんを含めて4名(ともに女性)の生存者を救出されるのです。

整理すると、
@ 墜落時間からして12日の21時ごろ、墜落後に現場に入った自衛官(達)が、状況の第一報を司令部に伝達。
A 21時20分 米軍の救難ヘリUH−1到着後すぐに帰還。
B 21時30分 墜落現場から信号弾確認

つまり、米軍の救難ヘリUH−1を帰したのも、墜落現場から信号弾を上げたのも、この自衛官(達)らが行ったと考えられます。とすると、若い女の人が「早く来て」と呼びかけたのも、男の子が「ようし、ぼくはがんばるぞ」と答えたのも、この自衛官(達)となります。

そして、信号弾を上げたのはこの自衛官(達)だとすると、翌朝、救助隊が現場を確認するまでの間に、他の自衛官らが現場に来たと考えてもおかしくはありません。

実際に、自力で現場に辿りついた民間人は、この部隊と出会い会話もしています。ヘリも飛んでいたという話も嘘ではないでしょう。

つまり、生存していた人たちの救助はもっと早くできたのであり、報告書の深夜でのヘリからの降下は不可能という見解は嘘だったことになります。

もっと、悪い言い方をすると、「死人に口なし」と生存者の存在を否定していたとしか考えられません。

助かる人を助けない日本の自衛官の存在を、亡くなられた123便の機長ら乗員や彼らを誘導した自衛隊機のパイロットは想像できるでしょうか。