事故の真相を解く鍵は、生存者の手記とコックピット内のボイスレコーダーにある。


8・12連絡会 運輸安全委員会への質問内容

2010年12月6日


御巣鷹山の事故の疑問

1、急減圧について

否定する部分については「その理由を明らかにできなかった」とある。

@ 急減圧このことに対して、生存していた4人の方たちからの立証は全く得ら れていない。

A 逆にスチュワーデスの落合由美さんからは、「ドーンとした後、白い煙が出 たがすぐに消えた」とあり、隔壁破壊による急減圧状態であれば客室内にもの すごい突風が流れ、気温が急激に氷点下何十度と寒くなるが、落合さんは、そ の様な現象はないと証言している。

B 日航一二三便の操縦室では、当然異常事態であれば酸素マスクをして操縦し ます。そうでなければ体に急減圧による異変が起きて安全な操縦が出来ないか ら。しかし、酸素マスクを付けていない。事故報告書は「運航乗務員は最後ま で酸素マスクを着用しなかったものと推定されるが、その理由を明らかにでき なかった」としている。

C 運航乗務員は異常事態発生後緊急降下に入ることなく、20,000 フィート以上 の高度で激しいフゴイド運動、ダッチロール運動を行いながら18 分間飛行した、 この間運航乗務員が緊急降下の意向を示しているのに緊急降下をしなかったが、 その理由を明らかにできなかった。と報告書にある。

D 警報音について
18時24分37秒にCVR に記録されているといわれる「警報音」はDFDR の記 録だけでは離陸警報か客室減圧警報かは判定がつかない。事故調の推定通りに、 この1秒の警報音が客室の減圧のものであったとするとなぜ1秒間だけで停止 したのか。その後約27 秒間停止再び25 分04秒から鳴りだしたのはなぜ?事 故報告書では、「その理由を明らかにすることはできなかった」としている。 客室減圧警報ではなく、車輪の異常による、離陸警報音ではなかったのか?

E ボーイング社から五名、アメリカの国家安全運輸委員会から二名、連邦航空 局から二名と連邦航空局の日本駐在官一名の計十名の調査団が来日し、八月十 四日に御巣鷹山に入った。その後、ボーイング社は、墜落から二十六日後の九 月六日にニューヨークタイムズ紙上で、「ボーイング七四七型機の設計自体に は問題はない。事故機は、修理ミスが原因で墜落した」と発表しました。日本 の事故調査委員会は、このアメリカの主張に大きく引きずられる形で、事故原 因を「修理ミスによる隔壁破壊説」の決着になったといえないか。

2、海底捜索について

海底捜査のプロセスはわかったが、なぜ20日だけだったのか。専門家は少な くとも1年がかりででも見つけないと見つからないといっている。当時の予算 の都合か、見つからなくても、捜査に問題ないという考えか。
最初の事故が起った地点は、相模湾上空。一番大事な相模湾の海底調査をおざ なりにしては本当の事故の原因はわからないのではないでしょうか。
その時刻には、相模湾上では、ミサイル自衛艦「まつゆき」が演習していたと いうことも詳しく知りたい。
海底捜索をした際のベタスキャンの生画像が運輸安全委員会保存されています か? 保存されているなら一度みせていただきたい。
17箇所特定の妥当性ないしは、今後の再捜査のかぎがあるかもしれません。

3、救難救助の遅れについて

報告書では、捜索・救難活動について、墜落地点は山岳地域であり、夜間の捜 索ということで機体の発見と墜落地点の確認に時間を要したのはやむを得ない と考えられるとしている。

米軍ヘリのパイロットが後で証言していることですが、「十二日の二十時五十 分には、米軍のヘリが墜落現場上空にいた。煙があがるところより少し離れた ところにロープで降下しようとしたが、日本の自衛隊が行くからと横田基地よ り中止命令が出された」と。

しかし、日本の自衛隊の幹部はテレビの取材に対 して、十二日夜に墜落現場に降下するのは自殺行為だと云った。また、当日の 最初の現場降下は、十三日午前七時四十五分とある。日の出の数時間後です。 何故もっと早く救助できなかったのかと思う。
遺体を検死した医師たちも、もっと救助が迅速ならばもっと助かっていただろ うと語っている。

また、地元の消防隊や猟友会、地元住民は、墜落現場はスゲノ沢だと言っているのに機動隊や自衛隊、警察等は、「現場は御座山だ、小倉山だ」と言って、案内を頼んだ地元の人の言うことを聞かずに、関係のない方向に案内させられたとも聞いた。

また、四人以外にも生存者がいたのなら夜中でも十分救出に行けたという地元の人の談話もある。墜落地点の確認に時間を要した理由を伺いたい。

4、死因の詳細な記述と生存の可能性についての記述がない

墜落の次の日の十三日に四人の生存者が助けられたが、特に生存者の内の川上 慶子さんは、「朝迄お父さんと妹の咲子さんは生きていて言葉を交わしていた」 と証言している。しかし、その証言は事故報告書にはない。

座席前部、中部は全員即死またはほぼ即死に近い状態とある。また、後部座席 は致命的な傷害を受けたものと考えられると報告書にあるが、その生存の可能 性についての記述がない。どうしてですか。

5、事故報告書に対し、前橋検察庁の検事正は、日米間の政治的決着を示唆す る発言をしているが、そのことについてどう考えているか教えてください。

6、各方面から疑問とされている事故調が行った急減圧の実験を公開で行って 欲しいと思います。

25年たっても、事務局には、原因についての情報提供などが今だにくる。遺 族も報告書の結論に納得いかず、個々にあげたような疑問点が残る。更に、疑 問が深まり、広がる可能性もあり、この状態は今後も続くと考える。
そこで、 説明責任を果たすという決意表明もされているこことをうけ、海底捜 索の状況だけでなく、こうした多くの疑問について、

@ 当時の状況がわかるなら当時の状況を
A 今後何か出来ることがあるならその可能性について B 国が行う再調査の可能性について
ぜひ見解を聞かせてください。

事故原因への疑問・質問にお答えいただくことは遺族支援の中でも最も大きな支援と考えています。なにとぞよろしくお願いいたします。

この質問に対する回答が、2011年7月の事故報告書の解説書です。

日本航空123 便の御巣鷹山墜落事故に係る航空事故調査報告書についての 解説